更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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「東路の道のはてよりも、なほ奧つかた」とはどういう地域か

平安時代の道路網における東海道



 更級日記は冒頭の『東路の道のはてよりも、なほ奧つかたに生いいでたる人』から始まる。平安時代の幹線道路網は基本的に奈良時代までに建設された駅路、伝路を踏襲している。それは平安初期に編纂された延喜式に路線が記されている。ここで登場する東路(あづまじ)とは東海道のことであるが、京を起点として、常陸国府(現在の茨城県石岡市)を終点とする。近世東海道とは重なる部分も多いが異なるところもあるので注意が必要である。更級日記でたどるコースは古代東海道そのものではなく、一部近世東海道へのコースに近づく部分もあるので、平安時代東海道というのが適切かもしれない。さて、『東路の道の果て』は、文字通り読めば石岡市で、さらに奥といえば現在の福島県かと思いそうだが、おそらくそうではないだろう。東海道も下総まで来れば人の往来もガクンと減り、東路も果てまで来たという実感があったのではないだろうか。上総に向かう官道は下総国府(千葉県市川市)から東に分岐する。つまり、幹線から支線に乗り換えるわけである。さらに草深い道をたどり、『なお奥つかた』にある千葉県市原市にあった上総国府に向かうのは心細かったことであろう。



地図出典:武部健一『古代の道ー畿内・東海道・東山道・北陸道』、吉川弘文館 (2004)から部分抜粋

 

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