国境の川「あすだ川」について考察
相模の国に入るとき渡った川は現在名で境川である
「武蔵と相模の中にゐてあすだ川といふ」。つまり武蔵と相模の国境は「あすだ川」であると言っている。当時の相武国境は実際には横浜市と鎌倉市の中間に位置する丘陵の尾根であった。とはいっても、そこは、一面に大人の背丈を越える程に草の生い茂る野山であった。そういうところを越えてきたら、どこが国境か分かる筈もない。実際に相模に入ったと実感できたのは、川に出てそこを舟で渡ってからであろう。その意味で実感上は境川が国境の川である。その渡し場はおそらく、鎌倉時代に石上の渡しと呼ばれる微高地であった。そこで一息入れながら今やってきた方角やら周囲を見渡して、西富の現在遊行寺の建つ屏風のような丘や寄せ返る、境川、柏尾川河口から片瀬海岸の波を見て感動したというわけである。
但し、以上のことから境川が当時「あすだ川」と呼ばれていたと考える訳にはゆかない。作者が思い違いをしている可能性が高いからである。それについては次項「作者は太日川から国境を数え間違えた」でその理由を述べる。
関連地図は境川、石上の渡しの東岸の微高地にある新林公園あたり(標高約20m)を示した。