更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
文字サイズ

菅原家一行は東京のどの辺りを通って竹芝寺に向かったか?

隅田の渡しから竹芝寺への経路



 隅田川を橋場で渡河して川沿いに南下すると浅草寺がある。ここは伝承では推古天皇の時代に創建といわれ、多少割り引いても平安時代にはあった。もちろん現在のような大寺院ではなく、駒形橋のたもとにある駒形堂を小さくしたような草堂であったという。きっと菅原家一行もここでお参りしたことだろう。更に南に進み現在の鳥越神社のあたりにさしかかる。江戸以前このあたりは小高い岡で社はその上にあったという(江戸建設の際、岡は崩されて沼や低地の埋め立てに使われた)。その鳥越神社も平安時代に白鳥明神として存在したというから、そこでも小休止を兼ねて、お参りしていったかもしれない。そこを過ぎ、日比谷のあたりまで来ると、現代のように直進して新橋方面に向かわず、右折しなければならない。上の地図を見ていただくと分かるように、日比谷入江のため海にぶつかり行き止まりだからである。入江を迂回するため入江の岸沿いに最短距離で進んだとも考えられるが、車や荷駄の部隊が通るしっかりした道があったかどうか疑わしい。逆方向になるが、570年経った徳川家康の江戸入城の際には海岸沿いではなく丘陵上の道をたどり、大きく迂回してやって来ている。つまり海岸沿いの道はあったにしても多数の人馬の通行に耐える道ではなかったということである。菅原家一行は、家康とは逆方向に現在の皇居の中を通り赤坂から麻布を経て三田の方に抜けたと考えられる。道のりにすると約16kmで、丘陵を登ったり降りたりで結構大変であるが、十分明るいうちに竹芝寺に着ける範囲である。(この経路は1590年徳川家康が江戸に入城したときたどった経路を参考にした(千代田区史旧版、新版にはない)。

 但し、日比谷入江沿いに最短距離で南下したという考えも完全には捨て切れない。原典に『濱も砂子白くなどもなく、こひぢのようにて、むらさき生ふと聞く野も、葦荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓もたる末見えぬまで、高く生い茂りて、中を分け行くに、竹芝という寺あり』という記述からは、黒い泥のような日比谷入江の濱や、葦などが高く生い茂る野を、かなりの時間かけて通過したような印象を受ける。もし、そうであるなら入江の岸辺に沿って(現在の皇居の石垣の裾あたりか)南下し葦の生い茂る湿地帯(現在の西新橋辺り)を通り三田の近くで丘陵に登り、竹芝寺に至ったことになる。この経路なら3kmほど距離は短縮される。家康の万単位の軍勢と、数十人の一行と同じに考える必要はないかもしれない。

 経路の問題はさておき、菅原一行はそれまで、東京湾沿いの海岸を通っていないので、この濱の風景描写は明らかに、今は埋められて存在しない平安時代の日比谷入江の様子であり、おそらくこの日記だけが伝える貴重な記録である。日比谷入江には大きな川が流入していないため水が淀み水生植物の腐植で濱が泥状になっていたことを示している。余談だが、家康は江戸建設の際に日比谷入江を埋めさせた。それは敵の軍船の侵入を防ぐためだとか言われているが、それ以前に、水が淀み、夏は蚊の発生など不衛生な、美しくもないこの入江を視界から消してしまいたかったためではないだろうか。もちろん、城下町の土地造成という実利もあった。

 

カテゴリ一覧

ページトップへ

この記事のレビュー ☆☆☆☆☆ (0)

レビューはありません。

レビューを投稿