更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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相模・武蔵国境はどこか?

相模・武蔵の南部国境が境川である可能性



 相模・武蔵国境について「神奈川の古代道」p.61藤沢市教育委員会(1997)には下記の記述がある。 「南部が戸塚丘陵を相模・武蔵国境とする点は不確定要素が強いものの特に異見はない。問題は北部が境川を国境としている点である。近時では河野喜映『多摩丘陵南側の武蔵と相模の国界について』(多摩考古26、1996)が詳論するように中世には、境川でなく多摩丘陵が国境となっていたが古代まで遡るかは断定されない。復元図では河野論文に従い、多摩丘陵部を国境別案としてグレーの線で示した。おおよそ現在の東京都町田市、同八王子市境である。

 尚、河野論文では多摩丘陵を通る国境が町田市常盤町あたりで丘陵線より下り町田街道上に移るとしているが復元図ではこの部分は従来からの理解である境川に一本化してある。今後の検討に委ねたい。」

以上は、南部に関しては戸塚丘陵で問題ないが北部ははっきりしないという議論である。ところが、南部についても問題はありそうである。

 下記の更級日記の記述では川を渡って相模に入ったと言っている。

『武藏と相摸との中にゐてあすだ河といふ。在五中将の「いざこと問はむ」とよみけるわたりなり。中将の集にはすみだ河とあり。舟にて渡りぬれば、相摸の國になりぬ。

ここでは明らかに記憶違いがあり下総・武蔵の国境と武蔵・相模の国境を混同している。しかし、2か所とも船で渡ったからこそ混同したのであるとすれば、武蔵・相模の国境も川であったことになる。その国境の川こそ境川ではなかったかという疑問が出てくる。


この問題について、更級日記作者が当時の行政境界を知らなかったため川を国境と信じ込んでいたと考えることも可能である。とはいえ、彼女に限らず、地図などない時代、何も目印のない山の尾根を国境と考えるより、川を国境と考える人の方が多かったと考えても不思議ではない。

 

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