更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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竹芝寺は現在の港区三田の済海寺か?

済海寺に隣接する亀塚公園の亀山碑に手掛かり



 ほとんどの更級注釈書に竹芝寺は現在の済海寺であると書いてある。しかし、その根拠を示したものは無い。竹芝寺の位置はこれから先のコースに大きく影響するから非常に重要である。済海寺説は隣接する亀塚公園(江戸時代に上野(群馬県)沼田城主土岐家の下屋敷があった場所)内にある亀山碑にその場所が『武蔵国荏原郡竹芝郷に属し、更級日記の竹芝寺は隣の済海寺である』と刻まれていることによるらしい。その碑は1750年に土岐頼煕により建てられているが(公園の案内板には頼興とある?)、その出典、根拠は全く不明である。しかし何か有力な根拠がなければ、金をかけてそんなものを建てたりはしないので何かあったはずだが、土岐家の御子孫はご存知ないだろうか。

まったくの想像に過ぎないが、土岐藩邸の建設時、多数の礎石が出土し、それを使用して藩邸の建物を建てたということがあったのではないだろうか。そうなら遺跡を破壊したことの償いに亀山碑を残したことの説明がつく。台地上の遺跡は後代の再利用の際、表面を平らに削られることが多く、現在、公園を発掘調査しても土岐藩邸以前の遺構はない可能性が高い。懸命に調査されている上総、下総国衙遺構がいまだに見つからないのも、同じ理由だろう。

なお、この亀塚は古墳ではないかと考えられていて、昭和46年に発掘調査が行われている。しかし、壺が一つ出ただけで古墳であるという確証は得られなかった。やはり土岐藩邸の造成工事に伴う削平、残土処理で作られた築山である可能性が高い。

 この公園や済海寺の前の道路は現在、聖坂と呼ばれているが、これは家康江戸入府以前の古奥州街道であったという。とすれば、平安時代にも主要道路として使われていた可能性が大きく、この地の有力者が交通の要衝に居を構えていたとしても不思議はない。従って状況的には、ここに竹芝寺があったとしても無理ではない。今しばらくは通説に従っておくことにする。

済海寺がある場所の地形は裏が崖地であり縄文時代は波が打ち寄せる海岸であった。その後海岸は後退したが、崖の下を安定して通行できるようになるのは室町時代かそれ以降ではないだろうか。江戸時代には崖下を東海道が通っていたが、まだ海岸はそれほど遠ざかってはいない。現代の地形からは想像もつかないことである。

亀山碑

≪案内板≫港区指定有形文化財  歴史資料 亀山碑 亀山碑は、ここ亀塚の頂部にある巾、2.2m、高さ1.4mの石碑で、上野国沼田城主土岐頼熈(ときよりおき)によって寛延3年(1750)に建てられたものです。土岐家は、明暦3年(1657)にこの地を下屋敷として拝領しました。詩文にひいでた大名と言われた頼熈は、この地が『更級日記』の竹芝寺伝説の故地であることや、塚の頂部に酒壺があり、ここに出入りする亀を神と崇めていたが一夜の風雨で酒壺の亀が石になったという伝説に興味を持ち、そうした由来を伝えるために、この碑を建立したと考えられています。大名が邸内に建立した石碑として貴重な物です。 平成26年3月10日   港区教育委員会


亀塚公園、済海寺は海岸段丘の上にある

亀塚公園の裏の崖。下の道路から十数メートルある。


亀塚公園

亀塚公園(東京都港区三田)。この地は見晴らしがよく房総までもよく見え、室町末期には太田道灌の砦があった。江戸時代には沼田藩土岐家下屋敷、明治になってから皇族華頂宮邸となったが、戦後東京都の公園となった。


 

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