更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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まつざとの次の宿泊地はどこか?

平安時代の隅田川の渡し



 古代直線道路の隅田川沿岸起点は隅田である。ここで前日同様、荷物をその日のうちに向こう岸に渡し、家族は隅田に宿泊して翌朝、川を渡り次の竹芝寺に向かったと考えるのが自然である。直線道路が隅田川に突き当たる一帯は標高10mくらいの微高地になっていて水神社があった(近くの水神保育園の名にこの場所の名残がある)。この水神社(現在隅田川神社と改名し位置も100m南に移転)という祠は古くからあり洪水時にも水没しない場所にあった。こういう場所には水運、交通で繁栄する集落ができる。船着き場は現在の都立白髭公園サービスセンター(標高6m)の下あたりか。ちなみに160年後、源頼朝もここを通ったが隅田には宿泊せず、市川から太井川、隅田川両河を一日で渡って武蔵に入っている。この場合には空身の頼朝とその側近の軍勢に焦点が当たっており、荷駄の運搬は後を追う形で進行したからだと考えられる。頼朝の乳母が末子を連れて「隅田の宿」に参陣した(吾妻鏡)というから平安末期には宿場的な施設があったようだが、菅原家一行が通った時にはどうだったろうか。

 東京の発展により元の景観は想像すべくもないが、現在そのあたりは大規模な公園と都営白髭団地となっている。

 隅田が古くからの渡し場であったことは『北国紀行』(尭恵法師、文明19年1487年)にも記されているという(今井:房総万葉地理の研究p.287)。『二月の初め鳥越のおきな艤して角田川に泛びぬ。東岸は下総、西岸は武蔵に続けリ。利根(現在の古隅田川)入間(現在の荒川)の二河落合る所に彼の古き渡りあり』。それは後世の「橋場の渡し」と言われるが、それは大正2年まで存続し現在の白鬚橋の位置にあたる。明治13年測量の地形図には「橋場の渡し」が記載されている。当時、隅田川の流路は現代のように同じ幅の滑らかなものではなく、狭いところあり、州あり、島も在った。橋場の渡しは川幅が一番狭く川幅約160mの場所であった。ところで平安時代の隅田の渡しが本当にそこだったかというと、少し上流の現在の台東区南千住の石浜神社と隅田川神社を結ぶ線だったという説もある(現地を知らない人には、100mや200mずれてもどうでもいいことだが、現場を知っていると気になる)。これだと川を直角でなく斜めに渡ることになり渡河距離が伸びる。しかし両岸の集落を結ぶということにを考えれば不自然でもない。両岸の集落はいずれも洪水時にも水が来ない微高地にあるからである。

 蛇足だが、現在の隅田川に「隅田の渡し」を見に行ってもがっかりするだけである。石浜神社や隅田川神社に行っても川はまったく見えない。それは高潮対策のためか高い鉄の壁で河岸全面が覆われているからである。もちろん川岸に下りることもできず、川を見るなら白鬚橋から見るしかない。これには伊勢物語の都鳥もあきれているだろう。風情も何もあったものではない。

隅田川神社境内にある。おそらく移転に際し、これも撤去して移設したものだろう。もとはここから北100mのところにあり、隅田郡総鎮守「水神堂」として鎮座していた。


 

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