更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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10月5、6日(ユリウス暦)に宿泊した「いけだ」の現在地はどこか?

最初の宿泊地「いかた」の現在地



 10月5、6日(ユリウス暦)に宿泊した「いかた」は「いけだ」の誤写でないかと考えられている。この場合、官道を上り下総に入ってすぐの集落であり、上総の国境を越えて1日で行けるところは池田しかないのでほとんど議論の余地はない。現在の千葉市寒川町あたりが池田郷と呼ばれていたのでそれでよいのではないだろうか。但し実際の場所は現在の千葉県庁付近(長洲1丁目?)ではないかと思われる。宿泊した場所の近くには『野中に岡立ちたる所に、ただ木ぞ三つ立てる』というから、そのちょっとした岡というのは現在千葉県立中央図書館があるあたりを思わせるが、どうだろうか?

 駅制が機能していた時代(平安時代、延喜年間くらいまで?)、このあたりに河曲(かわわ)駅が置かれていたとする説があるが、これは井上(ゐかみ)駅が市川市国府台下であるという可能性が高くなった現在、距離的関係から同時に信憑性が高くなっている。交通の要衝には駅制が機能しなくなっても渡しは民間業者によって営まれていたはずである。河曲(かわわ)駅の河曲の意味は河が湾曲しているという意味だが都川も現代の地図を見ると左巻きにぐるっと湾曲している。蛇行河川は大雨の時、堤防が整備されていないと水がショートカットして、あふれた水で付近一帯が冠水し易い。

そのような場所に渡し場や駅家が設置される場合には当然川の氾濫時にも冠水しない安全な場所でなくてはならない。通常、川のそばの微高地が選ばれるが、それはどこかといえば、現在千葉城や千葉県立中央図書館のある丘である。

 

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