更級日記、竹芝寺の段に見える『ははそう』とは何か
竹芝寺の『ははそう』の解釈
『はるかにははそうなどいふ所のらうのあとのいしずえなどあり。』
解釈: (竹芝寺の境内には)一面に”ははそう”とかいう場所の回廊の跡の礎石などがある。
※タイトル画像の小山は亀塚公園内の「亀塚」であり頂上に石碑がある。かつて古墳ではないかと発掘調査も行われたが、そうではないことが明らかになっている。
「ははそう」という語の意味は藤原定家が朱点を施しているので、執筆から約200年後の平安末期から鎌倉初期にも不明な語であったことが分かる。このことから書写ミスか、固有名詞それも関東方言であったことが考えられる。地方で回廊を持つ建物と言えば寺院か国衙など役所の建物が考えられるが、この建物が立つ位置は街道の重要地点であるから、中央政府の建物でなくても地元の有力者の屋敷兼倉庫などの施設であったかもしれない。文脈から『ははそう』(読みは、はばそう、かもしれない)は少なくとも地名ではなく施設名であったと考えられる。それも、高級官僚である藤原定家に分からないのだから、律令にのらない私的な施設である可能性が高い。また、文筆業である更級作者も『ははそう』と聞いて、聞いたことのない施設名だとしたら、「それは何ですか?」と問い返し、自分で納得した言葉で書く筈であるから、書写ミスである可能性が高い。結局、今となっては分からないというしかない。
『ろうのあと』も問題である
「ろう」についても「廊」であるか「楼」であるかはわからない。実は「楼」という可能性は低くなく、後世、太田道灌の時代には、実際ここに物見が置かれていたそうである(亀塚案内板)。この場所は海岸台地の上で周囲の陸地はもちろん東京湾まで監視をするのに絶好の位置だったらしく、かつては房総までもよく見えたそうである(現在は海岸の埋め立てとビルの林立で何も見えない)。「楼」だとするとその施設は何だったかというと、平安時代なら城柵、砦、烽火台が考えられる。平将門時代に何かの軍事施設があったのかもしれない。とすると、『ははそう』は『はは城』が訛ったか。
ひょっとすると、現在亀山碑がある亀塚は望楼のあった小山であった可能性はないだろうか?メイン画像はその亀塚である。