更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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菅原家一行は弘明寺(ぐみょうじ)を通る必然性があったか?

弘明寺(ぐみょうじ)は相模に抜ける重要な通過点



 『更級日記』には何も記されていないが、現実の物資輸送を考えると、ここを通過することは重要なポイントである。まづ、位置的に横浜市弘明寺は藤沢市、西富に抜ける三浦半島の首根っこにある。もうひとつは輸送効率である。水上輸送と陸上輸送(馬車)の効率は江戸時代でも約80倍の差がある。舟一艘で8百俵運べるところ馬車一台では10俵が限度である。まして、車の構造も未熟で道路の整備されていない平安時代にはこの差はもっと大きくなる。米を初めとする重量物は本来海上輸送が望ましいが、当時太平洋航路が使えるようになっていた証拠はない(鎌倉時代には使えた)。ならば東京湾内ならどうかというとこれは可能であった。市原から対岸の横浜なら当時でも一日の行程である。現在の横浜市繁華街の地形からは想像もできないことだが、当時の横浜市大岡川の下流域は深く袋状に湾入していて弘明寺のすぐ下まで舟が入れた可能性がある。平安時代の地形は明らかでないが、江戸時代初頭までは洲干湊と呼ばれていた(のち干拓されて吉田新田となり、現在の横浜繁華街はここに発展した)。こういう状況で舟運を利用しないことは到底考えられない。米、海産物など重いものは弘明寺に直接送り、人や貴重品、軽貨は陸送して、ここで合流し相模に向かったと考えるのが合理的である。ついでに三浦半島を回れば相模まで舟で物資輸送できるようにも思えるが、それは現代人の感覚で、当時の舟は構造が原始的で、小型船しかなく、それは考えられないことであった。距離的には近くても冬季、太平洋の荒波にもまれ無事相模に着けるという保証はなかった。下手をすれば太平洋に流され永久に戻ってこれない危険性が高かった。

※写真は弘明寺境内から横浜市街を見る

 

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