更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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更級日記原典(旅日記)

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1.かどで(寛仁四年)



東路の道のはてよりも、なほ奧つかたに生ひいでたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひ始めけることにか、世中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつゝ、徒然なるひるま、よひゐなどに、姉、繼母などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとゞゆかしさまされど、我が思ふまゝに、そらに、いかでか覺え語らむ。いみじく心もとなきまゝに、等身に藥師佛を作りて、手あらひなどしてひとまにみそかに入りつゝ、「京(みやこ)にとくのぼせ給ひて、物語の多くさぶらふなる、あるかぎり見せ給へ」と身を捨てて額(ぬか)をつき、祈り申すほどに、十三になる年、のぼらむとて、九月(ながづき)三日門出して、いまたちといふ所にうつる。  年ごろ遊びなれつる所を、あらはに毀ちちらして立ちさわぎて、日の入際のいとすごく霧わたりたるに、車に乘るとてうち見やりたれば、ひとまには參りつゝ額をつきし、藥師佛の立ち給へるを、見捨て奉るかなしくて、人知れずうち泣かれぬ。  門出したる所は、めぐりなどもなくて、かりそめの茅屋の、しとみなどもなし。簾かけ、幕など引きたり。南ははるかに野のかた見やらる。東西は海ちかくていとおもしろし。夕霧たち渡りて、いみじうをかしければ、朝寢などもせず、かたがた見つゝ、こゝを立ちなむ事もあはれに悲しきに、同じ月の十五日、雨かきくらし降るに、境を出でて、しもつさの國のいかたといふ所に泊まりぬ。庵なども浮きぬばかりに雨降りなどすれば、恐しくて寢も寢られず、野中に岡だちたる所に、たゞ木ぞ三つたてる。その日は、雨にぬれたる物ども乾し、國にたちおくれたる人々待つとて、そこに日を暮しつ。  十七日のつとめて、立つ。昔、しもつさの國に、まのの長といふ人住みけり。ひき布を千むら、萬むら織らせ、漂させけるが家の跡とて、深き河を舟にて渡る。昔の門の柱のまだ殘りたるとて、大きなる柱、河のなかに四つたてり。人々歌よむを聞きて、心のうちに

  朽ちもせぬこの河柱のこらずは昔のあとをいかで知らまし

 その夜は、くろとの濱といふ所に泊まる。片つ方はひろ山なる所の、砂子はるばると白きに、松原茂りて、月いみじうあかきに、風の音もいみじう心細し。人々をかしがりて歌よみなどするに、

まどろまじこよひならではいつか見むくろどの濱の秋の夜の月



2.太井川


そのつとめて、そこをたちて、しもつさの國と、武藏との境にてある太井川といふが上の瀬、まつさとのわたりの津に泊まりて、夜ひと夜、舟にてかつがつ物などわたす。  乳母なる人は、男などもなくなして、境にて子産みたりしかば、離れて別にのぼる。いと戀しければ、行かまほしく思ふに、兄(せうと)なる人抱きてゐて行きたり。皆人は、かりそめの假屋などいへど、風すくまじくひきわたしなどしたるに、これは男なども添はねば、いと手はなちに、あらあらしげにて、苫といふものを一重うち葺きたれば、月殘りなくさし入りたるに、紅の衣うへに着て、うちなやみて臥したる、月影さやうの人にはこよなく透きて、いと白く清げにて、珍しと思ひてかき撫でつゝ、うち泣くを、いとあはれに見捨てがたく思へど、いそぎゐて行かるゝ心地、いと飽かずわりなし。面影におぼえて悲しければ、月の興もおぼえず、くんじ臥しぬ。  つとめて、舟に車かき据ゑて渡して、あなたの岸に車ひきたてて、送りに來つる人々これより皆かへりぬ。のぼるは止りなどして、行き別るゝ程、行くも止るも、皆泣きなどす。をさな心地にもあはれに見ゆ。

3 竹芝寺


今は武藏の國になりぬ。ことにをかしき所も見えず。濱も砂子白くなどもなく、こひぢのやうにて、むらさき生ふと聞く野も、芦荻のみ高く生ひて、馬に乘りて弓もたる末見えぬまで、高く生ひ茂りて、中をわけ行くに、竹芝といふ寺あり。はるかに、はゝさうなどといふ所の、廊のあとの礎などあり。いかなる所ぞと問へば、「これは、いにしへ竹芝といふさかなり。國の人のありけるを、火たきやの火たく衞士にさし奉りたりけるに、御前の庭を掃くとて、『などや苦しきめを見るらむ。わが國に七つ三つつくりすゑたる酒壺に、さしわたしたるひたえのひさごの、南風吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびくを見て、かくてあるよ』とひとりごち、つぶやきけるを、その時、帝の御女いみじうかしづかれ給ふ、たゞひとり御簾の際にたち出で給ひて、柱によりかゝりて御覽ずるに、この男のかくひとりごつを、いとあはれに、いかなるひさごの、いかになびくならむと、いみじうゆかしく思されければ、御簾を押しあげて、『あの男、こち寄れ』と召しければ、かしこまりて勾欄のつらにまゐりたりければ、『言ひつること、いま一かへり我にいひて聞かせよ』と仰せられければ、酒壺のことを、いま一かへり申しければ、『我ゐて行きて見せよ。さいふやうあり』と仰せられければ、かしこく恐しと思ひけれど、さるべきにやありけむ、負ひ奉りて下るに、論なく人追ひて來らむと思ひて、その夜、勢多の橋のもとに、この宮をすゑ奉りて、勢多の橋を一間ばかりこぼちて、それを飛び越えて、この宮をかき負ひ奉りて、七日七夜といふに、武藏の國に行き着きにけり。  帝、后、御子失せ給ひぬと思し惑ひ、もとめ給ふに、武藏の國の衞士の男なむ、いと香ばしきものを首にひきかけて、飛ぶやうに逃げけると申し出でて、此男を尋ぬるになかりけり。論なくもとの國にこそ行くらめと、朝廷(おほやけ)より使くだりて追ふに、勢多の橋こぼれて、え行きやらず、三月といふに武藏の國に行き着きて、この男を尋ぬるに、この御子おほやけづかひを召して、『我さるべきにやありけむ、この男の家ゆかしくて、率て行けといひしかば率てきたり。いみじくこゝありよくおぼゆ。この男罪にしれうぜられば、われはいかであれと。これも前の世にこの國にあとをたるべき宿世こそありけめ。はやかへりて朝廷にこのよしを奏せよ』と仰せられければ、いはむ方なくて、上りて、帝に、『かくなむありつる』と奏しければ、いふかひなし。その男を罪しても、今はこの宮をとりかへし、都にかへし奉るべきにもあらず。竹芝の男に、生けらむ世のかぎり、武藏の國を預けとらせて、おほやけごともなさせじ、たゞ宮にその國を預け奉らせ給ふよしの宣旨くだりにければ、この家を内裏のごとくつくりて住ませ奉りける家を、宮など失せ給ひにければ、寺になしたるを、竹芝寺といふなり。その宮のうみ給へる子どもは、やがて武藏といふ姓を得てなむありける。それよりのち、火たき屋に女は居るなり」と語る。


 野山、芦荻の中を分くるよりほかのことなくて、武藏と相摸との中にゐてあすだ河といふ。在五中将の「いざこと問はむ」とよみけるわたりなり。中将の集にはすみだ河とあり。舟にて渡りぬれば、相摸の國になりぬ。


 にしとみといふ所の山、繪よく書きたらむ屏風をたてならべたらむやうなり。片つ方は海、濱のさまも、寄せかへる浪の景色も、いみじうおもしろし。もろこしが原といふ所も、砂子のいみじう白きを二三日行く。「夏はやまとなでしこの濃く薄く錦をひけるやうになむ咲きたる。これは秋の末なれば見えぬ」といふに、なほ所々はうちこぼれつゝ、あはれげに咲きわたれり。もろこしが原に、やまとなでしこも咲きけむこそなど、人々をかしがる。

4 足柄山


足柄山といふは、四五日かねて、おそろしげに暗がりわたれり。やうやう入りたつ麓のほどだに、空のけしき、はかばかしくも見えず。えもいはず茂りわたりて、いと恐しげなり。麓に宿りたるに、月もなく暗き夜の、闇に惑ふやうなるに、遊女三人、いづくよりともなく出で夾たり。五十ばかりなる一人、二十ばかりなる、十四五なるとあり。庵のまへにからかさをささせてすゑたり。男ども、火をともして見れば、昔、こはたといひけむが孫といふ。髪いと長く、額いとよくかゝりて、色しろくきたなげなくて、さてもありぬべき下仕へなどにてもありぬべしなど、人々あはれがるに、聲すべて似るものなく、空に澄みのぼりてめでたくうたを歌ふ。人々いみじうあはれがりて、け近くて、人々もて興ずるに、「西國の遊女はえかゝらじ」などいふを聞きて、「難波わたりにくらぶれば」とめでたく歌ひたり。見る目のいときたなげなきに、聲さへ似る物なく歌ひて、さばかり恐しげなる山中にたちて行くを、人々あかず思ひて皆泣くを、をさなき心地には、ましてこのやどりを立たむことさへあかずおぼゆ。


 まだ曉より足柄を越ゆ。まいて山の中の恐しげなる事いはむ方なし。雲は足の下に踏まる。山の中らばかりの、木の下のわづかなるに、葵のたゞ三筋ばかりあるを、世はなれてかゝる山中にしも生ひけむよ、と人々あはれがる。水はその山に三所ぞ流れたる。


 からうじて、越えいでて、關山にとゞまりぬ。これよりは駿河なり。横走の關の傍に、岩壺といふ所あり。えもいはず大きなる石の四方なる中に、穴のあきたる中より出づる水の、清く冷たきことかぎりなし。


 富士の山はこの國なり。わが生ひ出でし國にては、西おもてに見えし山なり。その山のさま、いと世に見えぬさまなり。さまことなる山のすがたの、紺青を塗りたるやうなるに、雪の消ゆる世もなく積りたれば、色濃き衣に、白き袙(あこめ)着たらむやうに見えて、山の頂のすこし平ぎたるより、煙は立ちのぼる。夕暮れは火の燃え立つも見ゆ。


 清見が關は、片つ方は海なるに、關屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり。煙あふにやあらむ、清見が關の浪も高くなりぬべし。おもしろきことかぎりなし。


 田子浦は浪たかくて、舟にて漕ぎめぐる。


 大井川といふ渡あり。水の、世の常ならず、すり粉などを、濃くて流したらむやうに、白き水、早く流れたり。

5 富士川


富士河といふは、富士の山より落ちたる水なり。その國の人の出でて語るやう、「一年ごろ物にまかりたりしに、いと暑かりしかば、この水の面に休みつゝ見れば、河上の方より黄なるもの流れ來て、物につきて止まりたるを見れば、反故なり。とりあげて見れば、黄なる紙に、丹して、濃くうるはしく書かれたり。あやしくて見れば、來年なるべき國どもを、除目のごとみな書きて、この國來年あくべきにも、守なして、又添へて二人をなしたり。あやし、あさましと思ひて、とり上げて、乾して、をさめたりしを、かへる年の司召に、この文に書かれたりし、一つたがはず、この國の守とありしまゝなるを、三月のうちになくなりて、又なり代りたるも、このかたはらに書きつけられたりし人なり。かかる事なむありし。、來年の司召などは、今年この山に、そこばくの神々集まりて、ない給ふなりけりと見給へし。めづらかなることにさぶらふ」とかたる。


 ぬまじりといふ所もすがすがと過ぎて、いみじくわづらひ出でて、遠江にかゝる。さやの中山など越えけむほどもおぼえず。いみじく苦しければ、天ちうといふ河のつらに、假屋つくり設けたりければ、そこにて日ごろ過ぐるほどにぞ、やうやうおこたる。冬深くなりたれば、河風けはしく吹き上げつゝ、堪へ難くおぼえけり。そのわたりして濱名の橋に着いたり。濱名の橋、下りし時は黑木をわたしたりし、この度は、跡だに見えねば、舟にて渡る。入江にわたりし橋なり。外の海はいといみじくあしく浪高くて、入江のいたづらなる洲どもにこと物もなく、松原の茂れる中より、浪の寄せかへるも、いろいろの玉のやうに見え、まことに松の末より浪は越ゆるやうに見えて、いみじくおもしろし。


 それよりかみは、ゐのはなといふ坂の、えもいはずわびしきを上りぬれば、三河の國の高師の濱といふ。八橋は名のみして、橋のかたもなく、何の見所もなし。二むらの山の中にとまりたる夜、大きなる柿の木のしたに庵を作りたれば、夜一夜、庵の上に柿の落ちかゝりたるを、人々拾ひなどす。宮路の山といふ所越ゆるほど、十月晦日なるに、紅葉散らで盛りなり。


  嵐こそ吹き來ざりけれ宮路山まだもみぢ葉の散らでのこれる


   参河と尾張となるしかすがのわたり、げに思ひわづらいぬべくをかし。


 尾張國、鳴海浦を過ぐるに、夕汐たゞ満ちに満ちて、今宵宿らむも、中間に汐満ち來なば、こゝをも過ぎじと、あるかぎり走りまどひ過ぎぬ。
 美濃の國になる境に、すのまたといふ渡りして、野上といふ所につきぬ。そこに遊女ども出で來て、夜ひと夜、歌うたふにも、足柄なりしおもひ出でられてあはれに戀しきことかぎりなし。雪降り荒れまどふに、物の興もなくて、不破の關、あつみの山など越えて、近江國、おきなかといふ人の家に宿りて、四五日あり。
みつさか山の麓に、夜ひる、時雨、あられ降りみだれて、日の光もさやかならず、いみじう物むつかし。そこを立ちて、犬上、神崎、野洲、くるもとなどいふ所々、なにとなく過ぎぬ。湖のおもてはるばるとして、なでしま、竹生島などいふ所の見えたる、いとおもしろし。勢多の橋みなくづれて、わたりわづらふ。
 粟津にとゞまりて、師走の二日京に入る。暗くいき着くべくと、申の時ばかりに立ちて行けば、關ちかくなりて、山づらにかりそめなるきりかけといふ物したる上より、丈六の佛のいまだ荒作りにおはするが、顔ばかり見やられたり。あはれに、人離れていづこともなくておはする佛かなと、うち見やりて過ぎぬ。こゝらの國々を過ぎぬるに、駿河の清見が關と、相坂の關とばかりはなかりけり。いと暗くなりて、三條の宮の西なる所に着きぬ。

 

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