更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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上総国の国府(国衙)はどこにあったか?

上総国の国府(国衙)の位置は未確定



 現在の所、上総国衙の位置は発掘調査では確定されていない。しかし、国府と国分寺、国分尼寺、総社はセットで建てられるのが通例なので、現在、市原市役所がある市原台地(国分寺台)にあったことは間違いない。また国司の官舎である国司の館(たち)が富士山を見ることができる台地上にあったことが日記から分かるからである。更級日記中、足柄山の項で「富士の山はこの国なり。わが生いいでし国にては西面に見えし山なり」とある。なお、平安中期以降、行政実務を本来の国衙でなく、国司の官舎である国司の館で執る例が増えてくる。実質的に国府が移転したといえるかもしれない。

阿須波の神と上総国府の関係について

上総国府のある市原台地の上り口にあたる畑の中に阿須波神社という小さな社がある。これは海岸部にある飯香岡八幡宮と深い関係があり明治以前は末社であったという。
この神は万葉集にある防人の歌で名高い。
庭中の阿須波の神に木柴さし吾(あれ)は斎(いは)はむ帰り来(く)までに
  主帳の丁若麻績部の諸人(二十の四三五〇)

今井福治郎氏によれば、この神の性格は火や竈の神のほか屋敷神の性格があったと考えられるという。

「屋敷神は、多く屋敷の西北隅に祀られるのが普通であるから、ここのアスハの神は、国衙の屋敷神ではなかったろうか。これを逆にすると国府位置もわかってくる。阿須波神社の背後、つまり台地下は条理制の跡と言われているが、こうした地点に阿須波の神の祀られているのは、この神の古い姿を暗示しているようである。」(房総万葉地理の研究 p.157、春秋社)
以上の話は国府位置の決め手になるものではないが、参考にはなる。


 

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