万葉集に見る奈良時代の浮浪児事情
いつの時代にも、いろんな事情で親を失い社会の底辺をさまよう子供たちは居た。 ここで紹介するのは奈良時代の話だが、おそらく平安時代にも状況はさほど変わらなかっただろう。万葉集(巻三284)に以下の歌がある。
焼津辺 吾去鹿歯 駿河奈流 阿倍乃市道尓 相之児等羽裳
作者は春日蔵首老(かすがのくらのおびとおゆ) 蔵首は姓で名前が老(おゆ)である。この人は元は僧で法名を弁基といった。しかし、どういう事情か大宝元年(701年)に還俗を命じられ官吏となっている。和銅7年(714年)には従五位下常陸の介であり、この時52歳であったという。
上記の歌は任地から都へ戻る際に駿河国府を通過した時、詠まれたものと思われる。
この歌は、当時の東海道駅路が駿河国府から焼津に向かっていたことを示す証拠として重要である。ところが、歌意については納得のゆく解釈がされていない。
これまでの解釈は以下のとおりである。
焼津辺に我が行きしかば 駿河なる安倍の市道に逢いし児らはも
(現代語訳)
焼津の辺りに私が行ったときに駿河の国の安倍の市道で逢った子よ
万葉集(1)p.215、日本古典文学全集2、小学館
また別書では、読み下しは同じだが、
阿部の市で一夜の歓びを交わした女を追憶しての歌であろう、としている。
つまり従来の解釈はいずれも『駿河国府の道端で拾ったあの女は良かったなあ』である。しかし、そんなことを五十にもなる当時であれば老人がわざわざ歌に詠むだろうか。
従来の解釈は間違いである。作者の名誉のために筆者の解釈を述べる。
(読み下し)
『焼津辺に吾れ去りしかば 駿河なる安倍の市道(いちぢ)に会いし児等はも』
(拙訳)
焼津に向け私が去ってしまったら、駿河の安倍の市の道端で出会った子供たちは一体どうなるのだろう
社会福祉がない時代では親が死んだり、捨てられて孤児になった子供たちは、人が集まる市にやって来て施しを受けるしか生きるすべはなかった。春日老は公用で都に戻る途中、たまたま、こうした浮浪の子供達に囲まれ、ご飯を食べさせたり、衣類を与えたり、出来るだけのことはしてやったのだろう。しかし、それは一時の事で自分が焼津に向けて出発した後はどうなっているか分からない。自分の無力さを嘆いているのが、この歌の本旨である。春日老は元々僧侶で貧民の救済に手を尽くしてきた人だけに、その歎きは大きかった。