更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
文字サイズ

平安時代に銅銭が流通しなかった理由

平安時代の代替通貨として米、絹、布などが取引に使用されたが重かったり、かさばったりで旅行中に持ち運ぶのは大変不便であった。やはり、銅銭があれば便利だったと思うのだが普及しなかった。それはなぜかという問題である。

この問題には以下2つの要因が考えられている。



(1)平安時代には貨幣として銅銭を流通させるだけの銅地金が産出されなかった


 

通説として当時の人が貨幣というものになじまなかったということが言われる。しかし、既に奈良時代には畿内に限れば下層の人々まで銭貨の利用になじんでいた。奈良、平安時代の日本は国家プロジェクトが目白押しで経済発展著しく銭貨の需要は極めて大きかったと考えられている。

平安前期で銭貨の発行が終わった後、平安末期に、平清盛は日宋貿易で大量の宋銭を輸入し再び銭貨を流通させようとした。経済活性化に伴う必然的金融政策であったと考えられるが、日本で銭貨の再発行をしなかったのはなぜか。



 奈良・平安時代には和同開珎を始め皇朝十二銭まで銭の鋳造が行われ、さらに江戸時代には大量の銅地金を長崎から輸出していたことから、日本は産銅国という印象が強いが、意外にも平安から鎌倉時代にかけての日本では銅の産出は非常に少なかったようである。逆に金は国際価格より安価に産出していて、これが平安末期から室町時代まで金を代価に銅銭を輸入していた本当の理由らしい(文献1)。銅地金不足の時代であったことは、宋銭、明銭を貨幣として使うだけでなく、鋳つぶして梵鐘、仏具を作ることまで行われていたことからも容易に想像される。

 戦国期に至り各地で鉱山の開発が活発となり、やっと銅貧国から脱出し、江戸時代の銭貨鋳造に至る。

画像は皇朝十二銭の一部(国史大辞典、吉川弘文館より)

延喜式主税式によれば、鋳銭用原料として、備中国、銅800斤、長門国、2516斤、豊前国、銅2516斤が課されている。これは年間1000貫文(100万枚の銅銭)に過ぎず、国全体を貨幣経済で運営するにはあまりに少ない通貨供給量であった。



(2)奈良時代・平安時代初期の激しいインフレ



鬼頭清明氏は銭貨の発行と終了の関係を当時恒常化していたインフレで説明している。以下要点をまとめた。

奈良・平安時代初期までは畿内とその周辺国では銭貨は低所得者層まで普及し流通していた。地方でも富豪層にはある程度の蓄銭、流通が見られた。この銭貨普及の契機は平城京、長岡京、平安京など首都造営であったと言われる。この時代はこれ以外にも東北征討、諸国の統治機関の整備、駅路伝路など交通インフラの整備など大型プロジェクトが相次いでいて莫大な国費が支出されていた。当時の政府は首都造営に使役する労働者の給与を銭貨で支払う政策をとった。当時の経済規模は以前の飛鳥時代に比べ桁違いのGDPになっていたに違いなく、当然それに見合う通貨が発行されなければ経済は回らない。当時の銭貨発行はこの経済発展に対応するもので、先進的経済政策であったといえる。

 ところが大きな問題は需要に生産が追い付かず激しいインフレが起こったことである。当時の基幹産業であった米はじめとする食糧、布などの生産、流通は基本的に前代のままで、供給不足により物価が高騰したのである。そこで当時の政府は名目価値10倍の新銭発行することで対応した。これ自体は江戸時代の小判改鋳と同じで、発行通貨量を10倍にするということで経済学的には正しい措置である。しかし、時代が下るにつれ次の銭貨発行までの間隔が短かくなり、そのたびに10倍価値の新銭発行を余儀なくされ、最終的に十二回目の新銭発行で銭貨による経済は終末を迎えた。

銭貨発行が終了した要因としては、平安京の造営が一段落したことで支出が減ったことと、民衆側が蓄財手段として、あまりのインフレに懲りて貨幣を手元におくより米穀など生活必需物資を蓄えた方が安全であると学習してしまったことがあげられる。



<参考文献>



1.金属を通して歴史を観る(6.金属比価の歴史(2)比価表):新居宏、BOUNDARY コンパス社(1990.6)

2.竹内理三 図説日本文化史大系4平安時代(上)p.144、小学館

3.鬼頭清明『平安時代の銭貨』奈良平安時代史論集(下)p.185 吉川弘文館、1984

 

カテゴリ一覧

ページトップへ

この記事のレビュー ☆☆☆☆☆ (0)

レビューはありません。

レビューを投稿