平安時代中期における上総国の経済規模
上総の国は経済規模から大国とされ豊かな国とされていた。では具体的にどの程度豊かであったのか。
地図は千葉県市原市、明治16年測図の地形図(2万分の一迅速図八幡駅)平安時代に開田された条里制耕地が残る。古道を橙色の線で示した。
陸軍陸地測量部
Ⅰ.上総国の冨の源泉は何か
温暖な気候のために米穀生産が主たる産業であるのは当然だが、坂東諸国は繊維製品、特に麻布の産地であった。
(1)上総国における米穀の生産
江戸時代に上総国は譜代大名、御家人、旗本など小規模の領地が混在していたが、合計すると江戸中期で約40万石とされている(国史大辞典、吉川弘文館)。平安時代までさかのぼると普通なら坂東の一国の石高など分かるはずもないのだが、幸運なことに、平忠常の乱という大事件のために上総の正確な水田面積が記録に残されることになった。(忠常の乱については解説省略。)
左大弁源経頼の日記『左経記』(史料大成6『左経記』p.377、臨川書店)に(菅原孝標より3代後の)上総守辰重が、上総の本田が22980町であるといったと伝えている(長元7年10月24日1031年)。 延喜式には田の等級ごとの収穫量(穎稲)が示されている。上、中、下、下下の4種があり、中田であれば400束/町、下田であれば300束/町とされている。上総における平均収穫量は不明だが、おそらく中と下の間にあると考えれば、18万石と14万石の間にあると考えられる。財政状況の検討のため本稿では上総国の米穀生産量を約16万石と考える。
(計算基礎)350束/町×22980町=8043000束。これを籾摺りする(×0.5)と 402150石の舂米(玄米)ができる。古代升を現代升に換算すると160860石
注)倭名類聚抄(倭名類聚抄 本文編p.605、京都大学文学部他編、臨川書店)には諸国の田数が記録されている。上総については22846町9反235歩という数字がある。この田数がいつの時点のデータか不明だが、おそらく延喜2年に行われた最後の班田時のものではないだろうか。
(2)千年前に菅原孝標の家族が4年を過ごした上総の風景
上総に限らず全国に条里制の跡が見られるが具体的にそれがいつごろ施工されたか明らかでない。上総国には戦後まで条里の痕を残す水田耕地が見られた。イメージ画像は昭和30年1955年ころの市原における古代条里の痕跡をはっきり示す写真である。(出典:今井福治郎『房総万葉地理の研究』春秋社)
現在は耕地整理事業(昭和37-43年)のため姿を消したが、東関東自動車道の建設に先立ち発掘調査*1が行われ、その成立に関する知見が得られている。それによると、市原条里の開田時期は9世紀半ばから後半と推定されている。
菅原道真とそのブレーン達は9世紀末、寛平年間、新土地制度の準備作業としての班田を計画していた。これは律令体制延命のためではなく新土地制度施行のため土地所有者確定のためであったとされている。市原条里はこの時期に合わせて整備されたと考えるのが妥当ではないだろうか。
明治16年測図地形図に残る条里耕地、拡大図はこちら
*1 大谷弘幸:『市原条里に関する基礎的研究』研究紀要 第24号(11) 千葉県教育振興財団
(3)上総国における繊維製品の生産
延喜式には中央に進上する産品の数量*2がある。これだけの量を生産するには農民が自家用に織ったものを買い上げていては間に合わず、専門の工房があったことが推察される。更級日記に以下のくだりがある。
『昔しもつさの国にまののてうという人住みけり。匹布を千むらの万むらを織らせ、晒させける家の跡とて、深き河を舟にて渡る。昔の門の柱のまだ残りたるとて、大きなる柱、河の中に四つたてり』
ここに登場する下総のまのの長(長者)はこの地方での富豪層で、麻布を製造する工場を河(千葉市都川)のほとりで営んでいた。織った布を河原に広げ太陽に晒して柔軟にする作業をやっていたことが察せられる。残念ながらその工場は集中豪雨か何かの折に流されたらしく、更級一行が通った時は門の柱のみが残っていたという。
*2 延喜式 巻23民部下(『国史大系 延喜式 中』 p.152、吉川弘文館)
Ⅱ.上総国の財政規模試算
主な税収である田租と、主な支出である上進産物が推算可能なので、上総国の財政規模を算定してみた。その結果、平田耿二氏が提案されている『所当官物制』では勘定が合わず、平安税制には依然として未解明部分があると考えざるを得ない。
①歳入
主たる収入は田租だが、その他、収公と呼ばれる荘園に賦課される土地税、乗田(余った田)を貸し出して得た小作料(地子)がある。残念だが収公や地子がどの程度あったか全く不明である。
②歳出
支出のうち最大の費目は京都の中央政府に納める産品である。延喜式に定められた産品は富裕層が経営する工房から購入したり、生産者から直接購入する。特殊な物は国府が運営する工房で直接製作されていたかもしれない。この費用は米穀で支払うので、産品ごとに穎稲交換比率(これが流通価格でもある)を想定して、所要米穀の石高を算出した。結果を表.1に示す。
産品名 | 納入数量 | 穎稲換算比(流通価格) | 穎稲数(束 | 仕入原価率 | 仕入価格(束) | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
絁(あしぎぬ) | 50疋 | 80束/疋 | 4000 | 0.3 | 1200 | 太糸で織った絹織物 |
商布 | 11420反 | 40束/反 | 456800 | 0.3 | 137040 | 麻布普及品 1反=2丈6尺 |
布(麻布) | 1590反 | 40束/反 | 63600 | 0.3 | 19080 | 1反=1丈3尺 |
木綿(きぬわた) | 470斤 | 8束/屯 | 1880 | 0.3 | 564 | 1屯=2斤 |
腐革 | 8張 | 30束/張* | 0.3 | 72 | 詳細不明 | |
鹿皮 | 50張 | 30束/張* | 1500 | 0.3 | 450 | |
洗革 | 100張 | 30束/張* | 3000 | 0.3 | 900 | 詳細不明 |
鹿角 | 10枚 | 10束/枚* | 100 | 0.3 | 30 | 漢方薬か |
鑣(くつわ) | 20具 | 30束/具* | 600 | 0.3 | 180 | |
櫑(さかだる) | 4合 | 20束/合* | 80 | 0.3 | 24 | |
合計穎稲数 | 159544 |
*:腐革、鹿皮、etcなどについては想像値で根拠ない
産品購入価格はもちろん流通価格より低いが、仕入れ原価率が不明なので一律に0.3とした。0.3以下の場合もあったかもしれないが、それは国司苛政のレベルとなるので考えない。
国税に次ぐ費目は水路、道路、橋などインフラ整備、寺社の修理維持などの事業費である。平安時代と現代の大きな違いは、役所が工事で使う労働力にはコストがかからない。なぜなら雑徭(ぞうよう)という課役(30日の手弁当の無償労働)があったからだ。従って事業費用は主として資材代ということになりそれほど大きな数字にはならない。勧農、災害復旧、困窮者保護などにも出費はあるが、特に大きな災害がなければ数字は大きくない。役所に関する人件費、諸費用は毎年ほぼ定額でそれほど大きくないであろう。
③平安時代財政における歳入歳出の特徴と問題点
上総国の歳入・歳出対照表を表.2に示す。
歳入(石) | 歳出(石) | ||
---|---|---|---|
①田租 | 25278 | ⑥国税(産品購入費) | 31909 |
②荘園の収公 | ⑦地方事業費 | ||
③乗田地子 | ⑧勧農・救恤費 | ||
⑪未知の賦課税? | ⑨役所費 | ||
⑩国司報酬 | |||
歳入合計 | 歳出合計 |
表.2を見ての通り、殆どの費目の数字がないため、財政評価を議論する段階ではない。しかし、重要な点は最大の収入と思われる田租が政府に納める産品購入費に満たないことである。田租は5.5束/反と定率*1であるので田数が大幅に増加しない限り、増加することはない。一方、支出の国税も定数であるが、流通価格(穎稲換算比)か仕入れ原価率を引き下げるしか下げる要素はない。前述のように仕入れ原価率、0.3以下は無理である。
以上の事から、歳入にこれ以外の一定規模の⑪の賦課税があった可能性を考えざるを得ない。上総の総米穀生産額に占める田租の割合は17%と重い負担ではないので公定田租以外に『延喜の治』以前にあった律令体制下の調庸物課税を別の費目で徴税されていたのではないか。それでなくては他の事業費はおろか国司の報酬も確保できない。少なくとも、江戸時代の4公6民程度は課税されていたのではないだろうか。
*1 平田耿二『消された政治家 菅原道真 文集新書115』p.199(文芸春秋)