更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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更級日記作者の継母の氏素性は?

更級日記作者の継母の氏素性は?
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貴族は同格の家と婚姻するのが普通だった



 彼女は高階成行の娘といわれています。菅原家と同じく受領階級の家の出です。多くの受領の娘がそうであったように彼女も宮仕えに出ます(後一条院中宮の女房)。紫式部は1017年ごろ亡くなったらしいので、ひょっとしたら、どこかで紫式部に会ったことがあったかもしれません。仮にそうでも親しいお付き合いはなかったでしょうが、女房仲間でこの有名人について、色々うわさ話はしていたことでしょう。上総滞在中この継母が『更級日記』作者姉妹に紫式部や源氏物語のことを、事細かに語って聞かせたことは想像に難くありません。言い換えれば『更級日記』作者の物語願望はこの継母によって植え付けられたのです。

 後年のことですが、継母には成章(しげあや)という叔父がいます。この成章の妻に紫式部の一人娘、賢子(後冷泉天皇の乳母を勤めたので本名がわかっています)がなるのです。更級作者と賢子はほぼ同時代を生きることになります。



継母(上総大輔)の生きた年代は



継母は後一条院中宮威子(たけこ)に仕えた女房と言われています。 中宮威子は藤原道長と正妻倫子の間に生まれました(1000ー1036年)。 この人は一条天皇の第二皇子(敦平親王)である後一条天皇(1008-1036年)の中宮となりますが、 敦平親王は先帝の急逝により8歳で即位します。 従って威子が中宮となるのは少なくとも践祚の年、1016年以降の筈です。 一方、継母は菅原家の家族と同年に上総に下向していますから、 中宮付き女房になったのは上総から戻った後だということになります。
   継母は上総に下る前にすでに宮仕えしていました。  孝標が上総下向に際してこの人を選んだのは何も自分の身の回りの世話をしてもらうためだけではありません。 二人の女の子の家庭教師が必要だったのです。貴族の娘は読み書きはもちろん、歌も詠めなくてはなりません。 それを教えられるのはある程度、教育者としての経験が必要です。 それを加味して孝標は妻選びをしたことを考えれば、継母は以前にも誰かの教育女房として仕えていた可能性が高いのです。 生徒は誰かというと、入内前の威子であれば無理がありません。 入内時、後一条帝は8歳、威子は16歳です。継母は威子の入内に備え、今でいう小中学校の時代を教えていた可能性があります。 教師としての年齢は威子より少なくとも10歳近く年上でないと無理でしょう。 仮に生年を990年頃と考えれば上総に下向したときは26歳となります。


※中宮威子が後一条院中宮と呼ばれた理由
後一条天皇は29歳で急逝されたのですが、皇子がなく弟の敦良親王(後朱雀天皇)が皇位を継承されることになります。ところが、そのためには譲位の儀式が必要でした。やむを得ず、後一条帝の死を秘匿し、その間に後一条帝は譲位し上皇になられる形にしたわけです。その結果、後一条帝は生前の最高位である上皇として後一条院と呼ばれることになりました。この間の事情は『左経記』に詳しく書かれていますが、『日本紀略』に簡単にまとめてあります。『日本紀略』第三(後編)p.290、吉川弘文館

 

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