菅原家の家系と日本史上の巨人、菅原道真
菅原家は奈良時代までは土師氏という氏族でした。桓武天皇の御世に改姓を願い出て許されています。有力氏族ではありませんでしたが、平安時代には概ね学問の家として文章博士、大学頭を歴任する学者の家柄でした。なかでも菅原道真は幼少の頃から傑出した才能で将来を嘱望されていました。業績を重ね右大臣に登り国家の危機を切り抜ける道筋が見えたと確信したその時、劇的な暗転となりクーデターにより失脚するのです。
道真没後20年経って正式に名誉回復されるまで菅原家は日陰者としてひっそりと生きてゆくほかはありませんでした。道真失脚に連座して土佐に配流された長男、高視は帰京後復権したものの文章博士になることなく若くして歿しています。その後、菅原家は学問の家として存続しますが政治の中枢に参画することはありませんでした。従って菅原家の歴史は道真の業績のみで語られると言って過言ではありません。以下に菅原道真が日本をどう動かしたのか、簡単にまとめてみました。
(1)道真の人となり
若いころ、傑出した知能の上に旺盛な学習意欲を持った彼は実務官僚として枢要な部署を歴任しましたが、この頃の道真は相当な自信家であったようです。しかし、讃岐の守として疲弊した地方の実態に直面した時、亡びようとする国家の危機を感じます。若くして参議に抜擢され国政に参画した時、困難に対してなす術を知らない門閥出身の参議公卿に対して、彼はどのような感情を抱いたでしょうか。天才肌の人はどうしても周囲の人が馬鹿に見えてしまいます。そして空気が読めず自分の信ずる理念を理屈で押し通してしまうということが起こります。こうなると、周囲からは孤立してしまいます。とはいえ、素人のたわごとなど一切無視して、ひたすら問題解決に没頭しなければ、この時の危機は打開できなかったのです。
他方、菅原家の祖業である学者仲間での立ち位置はどうだったでしょう。 平田耿二氏は『江談抄』によると、巨勢文雄が自分の門下である清行について、「清行の才能と名声は学者の中で超越した存在である」と書いたところ、道真は「超越」の二字を「愚鈍」に改めるべきだといった、と言及しています。三善清行は学者仲間で後輩であるとはいえ、いくらなんでもあんまりです。彼は清行の試験官を務めたこともあり努力家であっても、才能の冴えが感じられない彼を、ズバリそのように評価したのでしょう。遠慮のない辛辣な評価を下す道真は同業者からは敬遠され、嫌われ者であったようです。ちなみに三善清行はその後の提言を見ても無能とは言えず、凡人の目線ではそこそこ有能な人だったのでしょう。
(2)平安時代日本を救った菅原道真
平安時代に『延喜の治』という政治経済改革が行われましたが、これがどのような改革で、誰が主導して行ったのか歴史教科書は触れていません。奈良時代から日本は厳しい財政難と地方の荒廃が進み何度も立て直しが試みられましたが、いずれも弥縫策で衰退の流れを止めることはできませんでした。
ここで登場したのが稀代の天才、菅原道真です。平時なら文章博士、四位、五位どまりの家柄でしたが、この重大な任務にこたえられる政治家は菅原道真をおいてありませんでした。宇多天皇は全てを道真に託したのです。権門と言われる支配階層も尻に火が付いた危機の中では当面は黙って見守るしかありませんでした。国家改造の諸政策は寛平3年(891年)に始まり昌泰3年(900年)頃に見通しがついてきました。この頃合いを狙ってクーデターが起こったのです。
(3)菅原道真追放の核心
道真左遷のクーデターは従来、菅原道真の異例の栄進に対する門閥貴族たちの妬みや藤原家が握っていた政権中枢の座を奪われることへの不安が原因と言われています。しかし、現実にはもっと根深いものがあったのです。
①院宮王臣家、権門と呼ばれる既得権者層が権益侵害者、菅原道真に対して牙をむく
右大臣を誣告によって排除するということは失敗に終われば大罪です。それを敢えて実行したのは相当の覚悟があったのでしょう。改革は痛みを伴います。この時代に社会の頂点にいた貴族階層は既に多くの『荘園』を蓄えていました。荘園とは本来売買、開墾等正規の手続きを経て得た私営田ですが、税は納めねばなりません。しかし現実には不法な『闇荘園』がたくさんあったと言われます。道真の構想には当然『闇の荘園』の摘発と収公(国有地への編入)があったと思われます。これが実行に移されると既得権者は自らの地位を裏付ける冨を奪われることになります。墾田の整理、所有権確定による土地課税制度の創設と延喜の荘園整理令で成文化される『闇荘園』の収公が道真改革の肝であり、冷厳な道真が自分たちに忖度して手心を加えてくれるとは思えなかったのです。着々と関連法令が整備され法の実施が目前に迫って来ると、上流貴族、皇族たちは『××は消すしかない』と思い至ったのではないでしょうか。
②公卿の怨念
寛平7年の閣議メンバーである公卿14人のうち道真の味方と言える人は多くなかったようです。経済問題はただでさえ複雑で素人に理解させるのは難しいことです。彼らの面目をつぶさず、うまく操縦できればよかったのですが、おそらく、互いに無視し合う状態が続いたのではないでしょうか。これが約10年間も続けば『殺してやりたい』というほどに恨みが募っていたと考えられます。道真本人はいわゆる独裁者ではありませんでしたが、公卿会議では鉄壁の知的独裁者であった可能性はあるのです。
(4)菅原道真の日本史上での位置
醍醐天皇の治世で行われた『延喜の治』は実質的に菅原道真によって達成されたことは明らかです。土地課税制度や国司請負制など国家運営制度の大転換は破産寸前の日本社会を見事に立て直しました。これは『王朝国家体制』と呼ばれ、華やかな平安文化を支えてゆくことになります。菅原道真はまさに古代日本の中興の祖と言えます。
では私たちは、その事跡を歴史にたどれるでしょうか。不思議なことに正史三代実録は仁和年間で終わり、その後を継ぐ歴史書は宇多上皇の強い要望にも拘わらずついに編纂されませんでした。それ以外の当時の史料にはほとんど寛平、昌泰年間の経済法令は見つかっていません。
平田耿二氏はこれは何者かが意図的に道真の事蹟を消し去った結果だと推測しています。
※道真によって日本国家の経済体制、土地制度は大転換します。それは『王朝国家体制』と呼ばれますが、坂本賞三氏の史料研究により初めて復元され明らかになりました。
(5)その後の菅原家
『昌泰の変』と呼ばれる道真追放のクーデターの後、子供たちも連座して長男の高視は土佐へ、淳茂は播磨に配流されました。しかし、道真没後、延暦6年(906年)には帰京を許され位を一階進められています。その後は順調に累進を重ね延喜13年(913年)には従四位上に登りましたが、惜しくも38歳で没しました。その長子の雅視から資忠、孝標、定義と続き学問の家を継いで行くことになります(孝標だけは文章博士を歴任しませんでした)。この過程を見れば権門側は菅原家をつぶすことが目的ではなく、道真個人が標的であったことが分かります。
藤原氏など権門側は道真追放後ただちに、自分たちに都合の悪い法令を削除、改変してから改革案を施行に移したことでしょう。
以上は平田耿二氏の説に沿った解説ですが、一部筆者の考えも付け加えました。
平田氏は非公認荘園(『闇荘園』)は新法令でほとんど収公されたと考えているようです。しかし、筆者は、その後の荘園増加を見れば、特例やそれを取り締まる国司の抱き込みなどで骨抜きにされたと考えます。言い換えれば不徹底な改革に終わったわけですが、それでも、非門閥貴族がたった一人で土地制度、税制という国家構造を根本的に転換させたことには驚かざるを得ません。本来なら日本史上に平安時代を前期と後期に分け菅原道真によって王朝国家体制が切り開かれたことを明記し、顕彰しなければならない歴史上の画期でした。
参考文献:平田耿二『消された政治家 菅原道真』(文春文庫)
太宰府での道真
昌泰4年(延喜元年)1月25日(901年)、道真は突然、太宰権帥に左遷されました。そして2月1日追われるように老僕1人、幼い子供2人だけが同道を許され都を後にしたのです。事実上の流刑です。途中、馬も替えてもらえず、苦しい旅をして太宰府にたどりつきます。北野天神縁起では船で下向したように描かれていますがそれはありません。太宰府では南館と呼ばれる、あばら家で畑を耕し野菜を作ったり、子供の勉強相手をしながら過ごしますが、財産は没収され、給与はなく食うや食わずやの生活を送ります。しかも皮膚病や後には胃病に苦しめられ、詩作のみが唯一の慰めでした。国家の大恩人に対して、なんと心ない仕打ちと後世の人間は思いますが、当時の権門はそれでも怒りが収まらず、道真の死を待っていたのです。 延喜3年(903年)2月25日、道真は息を引き取ります。
下記写真は南舘の跡に建つ太宰府、榎社です。
菅原道真年譜
誕生 承和12年(845年)
元服 15歳、貞観元年(859年)
文章得業生 23歳、貞観9年(867年)
任官 27歳、貞観13年(871年)治部省玄播助
文章博士 33歳、元慶元年(877年)
讃岐守 42歳、仁和2年(886年)
式部少輔 47歳、寛平3年(891年)…中央政界に復帰
民部卿 52歳、寛平8年(896年)
右大臣 55歳 、昌泰2年(899年)
太宰権帥 左遷 57歳、昌泰4年(901年)
死去 59歳、延喜3年(903年)