更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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更級作者の母はどんな人?

母親と娘たちは性格が真反対



 どうもこの人は娘によく言われていません。何しろ頭が古く頑固で引っ込み思案と来ています。よくもこんな人に冒険好きでロマンティストの娘が二人も生まれたものだと思います。さて、この母は藤原倫寧(ともやす)の娘といわれていますが、そうすると蜻蛉日記作者(藤原道綱母)の妹であることになります。倫寧の推定生年は912年頃で道綱母は936年に生まれています。この倫寧氏はかなり艶福家だったらしく973年にも61歳で子宝を授かっています(このとき道綱母37歳)。このとき生まれたのが更級作者母とすれば何とか勘定は合いますが、いうまでもなく道綱母とは母親が違います。もちろん二人に互いに姉妹という実感があるわけはありません。蜻蛉日記にも『父のところでおめでたがあり、五十日のお祝いに歌と白い籠を梅の枝につけて送った』とあるだけです。彼女はこの年、兼家との婚姻関係を解消するなど悶々としていた時期であり、実家のおめでたも、他所の事だったのです。このとき生まれた子が更級作者母であるかどうかはわかりません。しかし、藤原定家が更級日記奥書にはっきりと倫寧の娘であると書いてある以上、その可能性は否定できません。



 さて、この人は菅原孝標と結婚することになるのですが、倫寧は977年、65歳で亡くなっていたので、そのときにはこの世にいません。もし973年に生まれた子が更級日記作者の母だとしたら倫寧逝去時、彼女は4歳ですから、生母側の一族の誰かが止むを得ず後見人となったのでしょう。結婚したのは孝標が蔵人に任官した頃ではないかという説がありますが、当時27歳と言えばかなり行き遅れの姫君です。これも実の親がなく真剣に権勢家の息子など、いい相手を見つけてくれる人がいなかったためでしょう。彼女から見れば孝標はしっかりした親のいない頼りない男だったのでしょう。しかし置かれた境遇からすれば要するに二人は似たもの夫婦だったのです。
※タイトル画像:狩野探幽『百人一首画帳』清少納言、摸本

 

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