継母が菅原孝標と一緒になった経緯と、帰京後別れた理由
継母はどういう経緯で孝標と一緒になったのか?
孝標が上総に赴任することになったとき、妻(作者の母)は頑として田舎に下ることを承知しなかったのです。作者が更級日記中で述べているように母は『古代の人(頭の古い頑固な人)』で、京都に近い寺社の参詣すら出かけない人でした。そんな人が地の果てのような草深い上総なんどに行くわけがありません。でも当時は国司が赴任する際、家族を同伴することは珍しくなく、むしろ家族を京都に残してゆく方が治安の問題もあり心配でした。身の回りの世話だけなら乳母や召使でよかったのですが、当時は学校というものがなく、教育は親がしなければなりませんでした。でも孝標には公務もあるし、まして思春期の二人の娘の教育など父親にはできません。どうしてもある程度、家柄も教養もある女性がいなくては始まりません。そこで困リ果てた孝標は誰か別の人を妻に迎えて、一緒に上総に下ってもらうことにしました。たまたま頼んだ仲立ちさんが、いい女性を見つけてくれ、一緒に下ってくれることになりました。
この女性は後に上総太輔(かずさだゆう)と呼ばれ、記録に残るほどですから、きっと聡明で、社交性もある人であったに違いありません。作者姉妹もこの聡明な継母とは、たいへん気が合ったらしく帰京後、この継母が家を出てゆく時はとても悲しんでいます。この人は子持ちの、今で言うシングルマザーでした。当時は結婚制度が確立していなかったので、このこと自体は、どうということはなかったのですが、現実問題として、乳児を抱えた夫のない女性の生活は大変でした。もちろん実家に余裕があれば問題はないのですが、色々事情もあったのでしょう、孝標と一緒になってくれることになったのです。
継母と父の離婚の理由
継母は孝標に惚れて結ばれたわけではなく、経済的理由なんです。おそらく見合いした時は多少風采の上がらない人とは思ったけれど、まじめそうだし、なんと言っても上総の介(いまなら県知事)です。何とかやっていけるかもと思いました。それが京に帰ってみると、元の妻が実家からやってきたかと思ったら、「北の方」面して、でんと居座り、孝標も頭が上がらない様子。上総に下る時には「京に戻ったら新しい家を買うつもりだ。妻の実家には戻らないよ」というので京都に帰れば自分が本妻かと思っていたのに、ずいぶん話が違う。『思ひしにあらぬことどもなどありて、世の中うらめしげにて、外にわたる…』とはこのことなのです。それに上総での生活でも孝標に対し男として、ときめきを感じることもなかったし、所詮これは釣り合わなかった縁というしかないんです。年齢的にも結婚したとき孝標は既に40半ばで、継母はおそらく20代であったろうから、共通の話題もなかったし、別れるしかなかったんです。