更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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平安時代における律令体制外の非定住の民『くぐつ』について

 更級日記に登場する『あそび』とは平安時代に『くぐつ』といわれた非定住民の一員である。倭名類聚抄では遊女の訓は『あそび』とされている。このことから西国、江口などにいた遊女と混同されるが、この点については更級作者とすれ違うように時代を生きた大江匡房が書き残した『朝野群載』所収の『遊女記』、『傀儡子記』という連続する2編の文によって相違点が明確になる。つまり両者とも歌唱と楽器演奏を生業とする芸能集団で、女性は男性の相手をすることも仕事の一つであった。『あそび』という呼び名は歌唱と楽器演奏という職能面を捉えたもので足柄で遭遇した女たちも『あそび』であり、江口で舟の上で客を待つ『あそび』も同じである。相違点は江口などの遊女は淀川周辺地域に定住していたが、『くぐつ』は歌唱と楽器演奏の他に手品や軽業師も含めた芸能集団の一員で、定住せず各地を巡業して生活していたことである。律令体制から外れているという意味ではいずれも流浪民(浪人)であるが、所謂、乞食ではなかった。  以下、漢文で書かれた大江匡房の『傀儡子(きらいし)記』を大曾根章介氏の書き下し文で読む。

※くぐつの職能に舞、踊りは含まれない。遊び、くぐつの職能に舞が加わるのは平安後期でこれが白拍子になってゆくのだといわれる。



傀儡子(きらいし)の記<書き下し文>(大曾根章介)



 傀儡子は、定まれる居なく、当る家なし。穹蘆氈帳、水草を逐ひてもて移徒す。頗る北狄の俗に類たり。男は皆弓馬うを使へ、狩猟をもて事と為す。或は双剣を跳らせて七丸を弄び、或は木人を舞はせて桃梗を闘はす。生ける人の態を能くすること、殆に魚竜曼蜓の戯に近し。沙石を変じて金銭と為し、草木を化して鳥獣と為し、能く人の目を□す。女は愁眉・啼粧・折腰歩・齲歯咲(うししょう)を為し、朱を施し粉を傅け、倡歌淫楽して、もて妖媚を求む。父母夫婿は誡□せず。しばしば行人旅客に逢ふといへども、一宵の佳会を嫌はず。徵嬖の余に、自ら千金の繍の服・錦の衣、金の釵(かんざし)・鈿の匣の具を献ずれば、これを異ひ有めざるはなし。一畝の田も耕さず、一枝の桑も採まず。故に県官に属かず。皆土民に非ずして、自ら浪人に限(ひと)し。上は王公を知らず、傍牧宰を怕れず。課役なきをもて、一生の楽と為せり。夜は百神を祭りて、鼓舞喧嘩して、もて福の助を祈れり。

  東国の美濃・参河・遠江等の党を、豪貴と為す。山陽は播州、山陰は馬州等の党、これに次ぐ。西海の党は下と成せり。その名ある儡は、小三・日百・三千載・万歳・小君・孫君等なり。韓蛾の塵を動かして、余音は梁をめぐる。聞く者は纓を霑して、自ら休むこと能はず。今様・古川様・足柄・片下・催馬楽・黒鳥子・田歌・神歌・棹歌・辻歌・満固・風俗・咒師・別法等の類は、勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず。即ちこれ天下の一物なり。誰か哀憐せざらむや。

原文はこちら:大江匡房『傀儡子記』



傀儡子(きらいし)の記<現代語訳>


 漢文随筆を現代文に訳するのは日本古文を訳するより難しい。平安時代に漢文を書いた貴族階級は生の中国語に触れることはなかったので、漢文を書く際には唐代以前の漢籍に類似の表現を見つけ、つなぎ合わせて、いわゆる漢借文をするしかなかった。当然日本の風俗は漢籍にないので、無理やり中国の風俗に当てはめてしまうので、それが比喩なのか、誇張されているのか、あるいは事実を語っているのか、判断できない。しかし、少なくとも『あそび』については更級日記が、その素晴らしい歌唱力、化粧していたであろう美しい女の容貌など、裏付けてくれたので、匡房の記述は中国の事物にこじつけているものの、おおむね、真実を伝えていると見ることが出来る。以下の現代語訳は、サイト管理人松太夫の試訳である。不審な部分については原文を確認していただきたい。


くぐつの話

 傀儡子(くぐつ)は一つの場所に定住せず、守るべき家もない。天幕をかけ敷物の上で生活している。水や草のあるところを求めて移り歩き、これは北狄(ほくてき)の習俗に似ている。男は皆、弓や馬の扱いに長け狩猟を生業としている。ある時には二本の剣を投げあげ7個の玉が入り乱れ操つる芸をやったり、またある時には木で作った人形を踊らせたり、木の人形を闘わせる芸もやる。また生身の人間にできることとは思えない『魚竜曼蜓の戯れ』もやる。人が見ている前で砂や石を金や銭に変えたり、草木を鳥獣に変えたりする。女は頬紅、白粉を塗り細い眉を描き、なよなよとした柳腰で愁いを帯びた微笑みを浮かべ(愁眉・啼粧・折腰歩・齲歯咲)、歌を唄い楽器を鳴らして男を誘惑する。父母や夫たちがそれを咎めることはない。たまたま行きずりの旅人であっても一夜の逢瀬を嫌がったりはしない。お招きに上がった帰りに高価な刺繍の服や錦の着物、金のかんざし、螺鈿細工の筥を差し出されれば、遠慮なく受け取る。一畝の田を耕すことも、一枝の桑を採るることもない。従って役人を気にせず、誰も土を耕さないことを以てすれば、これは浮浪民と同じである。上は天皇や貴族の事など知らず、そうかといって下々の役人なども関係はないので、課役もない気楽な人生である。夜には八百万の神をまつって太鼓、鼓を打ち鳴らし大声を張り上げ福の神がやって来ることを祈る。

 関東の美濃・参河・遠江等にいる一団が格として、最上とされ、山陽の播磨、山陰の但馬がそれに次ぎ、九州は下とされている。名前の通った集団(グループ)としては小三・日百・三千載・万歳・小君・孫君等がある。(その声たるや)韓蛾が塵を動かしたのもこれかと思うばかりに、余韻は天井の梁まで響き渡る。聞いている者は涙で冠の紐を濡らし、涙が止まらない。今様・古川様・足柄・片下・催馬楽・黒鳥子・田歌・神歌・棹歌・辻歌・満固・風俗・咒師(じゅし占い師)・別法等、数え上げればきりがない。これらは天下の宝である。どんな人でもこれらを楽しんでいる。


<傀儡子記の解説>


(1)作者:大江匡房(1041-1111) 平安時代の公卿、大学頭、正二位権中納言。漢学者、歌人。

(2)傀儡子

 漢字で読めば「かいらいし」「きらいし」であるが、日本語では倭名類聚抄によれば「くぐつ」と訓む。「くぐつ」という人々は定住しない人であり、それを作者大江匡房は中国古典に現われる北狄になぞらえている。しかし、北狄はモンゴルなど乾燥地の遊牧民であり、『穹蘆氈帳、水草を逐ひて、もて移徒す』とういう表現は日本の気候風土に合わない。漢籍に通じた匡房が苦し紛れに漢籍から似たような表現を流用していると考えられるので注意が必要である。共通するのは、狩猟をおこなっていたことと、家を持たず移動して生活していることだけであろう。日本の場合、人が集まる市が立つ国府や駅家が置かれた集落、社寺を訪ね歩いて現代で言う興業を開いて移動していたと想像される。現代風に言えばサーカス団のようなものだろう。

(3)『くぐつ』の生業(なりわい)

 傀儡子(くぐつ)については少し古い書籍であるが白柳秀湖による解説がある。それによると、『くぐつ』はヨーロッパにおけるジプシーと同じで、古く中国経由で日本にも来ていたのではないかという。”くぐつ文化”が中国経由で伝播したのか、ジプシー集団そのものが渡来したかは議論がある処であり、それには踏み込まない。くぐつ集団は生活の糧を得るため日常的に狩猟をおこない、村々を通った時には芸をして御祝儀を稼いだ。演じた演目は①手品②軽業(曲芸)③舞踊の三部であり、中国で行われていたものと共通するという。女たちは色っぽく化粧して、求められれば男性の相手も厭わなかった。それは当たり前に女の仕事の一つと考えられていたからである。とはいえ、女たちの主たる役割は歌と楽器演奏であった。つまり芸が下手では男たちをなびかせる役目は果たせないからである。人を感動させるレベルの歌唱、楽器演奏の能力を身につけるためには長期間の訓練と努力が必要であったろうことは現代でも同じである。それだけのものがあればこそ、高価な刺繍の服や錦の着物、金のかんざし、螺鈿細工の筥でも、当然の報酬として堂々といただくことが出来たのである。現代でも一流の芸能人なら1ステージで何百万稼ごうとぼったくりとは思われない。その意味で『くぐつ』は当時の立派な芸能人集団であったと結論付けられる。

(4)くぐつ女性の有様

 『女は愁眉・啼粧・折腰歩・齲歯咲(うししょう)を為し、朱を施し粉を傅け、倡歌淫楽して、もて妖媚を求む』、

これを直訳すれば「細い眉を描き、目の下を黒くし(アイシャドウ)泣いているように見せ、歩けば足が萎えているように弱々しく、歯痛で顎がひきつるときのような笑みを浮かべ、白粉(おしろい)、頬紅を着け」ということになる。これは中国古典に出てくる典型的美人ではなかろうか。日本で無理にこの類型を探せば、竹下夢二の描く女性像(メイン画像)が近い。しかし『あそび』は化粧はしていても、実際にはそんなに弱々しくはなかったはずである。移動民は大いに歩かねばならないからである。ただ男の気を引くため様々な媚態を演じていたことはあったであろう(それは現代でも同じ!)。そのような回りくどい表現に比べれば、更級日記の『髪いと長く、額いとよくかかりて、色白く、きたなげなくて』という日本語表現は単刀直入で生き生きとしている。大江匡房が如何に大学者であろうと、隔靴掻痒の感は否めず、日本の事を漢文で表記することの限界を露呈している。

(5)『魚竜曼蜓の戯れ』

 白柳秀湖氏の解説によると中国に流入したジプシー起源の見世物で寺廟の広場に盛んに演じられ喝采を博したものであるという。内容は以下の様な見世物である。

まず、舞台にあたる所に噴水を仕掛けて置き、ジプシー独特の手品・曲芸に群集の興が熟し、熱の高まった頃合いを見計らって、さっと噴水の口をきる。舞台にあたる所から一斉に水が噴出する。群集はあっけにとられる。その時、噴上がる水しぶきの中から、魚の冠面をつけたものと、龍の冠面をつけたものとが現れて逐いつ逐はれつ、雨と降り注ぐ水の中を踊り廻る。

(6)平安時代の歌謡

 今様・古川様・足柄・片下・催馬楽・黒鳥子・田歌・神歌・棹歌・辻歌・満固・風俗・咒師・別法等、歌謡のジャンルが取り上げられている。平安時代の人々もいろんな歌謡を楽しんでいたことが分かる。個々の歌謡の内容については大曾根章介氏による詳しい注釈がある。

ここで注目すべきは「足柄」という歌謡が挙げられていることである。更級日記の一行が感動した歌謡はこれであったかもしれない。

(7)『くぐつ』の社会的境遇

 『一畝の田も耕さず、一枝の桑も採まず。故に県官に属かず。皆土民に非ずして、自ら浪人に限(ひと)し。上は王公を知らず、傍牧宰を怕れず。課役なきをもて、一生の楽と為せり。夜は百神を祭りて、鼓舞喧嘩して、もて福の助を祈れり』

以上の記述に読むと、くぐつは統治の対象外で税も課役もなく、自由に各地を放浪し、夜になれば太鼓を打ち鳴らし大騒ぎして気楽な人生を送っていると理解される。しかし、実際に彼らの生活がどうだったかは、ヨーロッパのジプシーが置かれた境遇を垣間見ればおおよそ類推できる。

家がなければ冬季や雨の季節には寝泊まりにも苦労し、狩猟の獲物が少なかったり、興業の上りが少なければ直ちに飢餓に陥る。更に不作など社会不安があれば、真っ先に盗賊などの嫌疑をかけられ討伐の対象となる。とにかく社会的に人と認められない非常に不安定な立場であったと思われる。

参考文献

①傀儡子大江匡房、朝野群載、国史大系29、p.67 吉川弘文館&l
②傀儡子 書下し文、大曾根章介 日本思想体系第8巻ー古代政治社会思想、p.157 岩波書店
③白柳秀湖、日本民族文化史考、p.21 文理書院(昭和22年)

 

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