逗留の多い帰京の旅には何か他の目的でもあったのか?
帰京の旅は商売をしながら儲けを増やす行商の旅でもあった
国司帰任の旅は任国から持ち出した物資を転がして大儲けするチャンスであった。国司が任国から持ち帰る物は当然その地の特産品である。貨幣経済が発達していない時代には産物そのものが富であり財産だが、それを無いところに持ち込み、その地の産物と交換すると更に価値は増大する。それが商売というものだが、長い旅であればあるほどそのチャンスは多い。主人の菅原孝標がいかに都育ちで世事に疎かったとしても、使用人の中にはそういうことに長けた者がいて、大きな集落、例えば国府所在地(市の立つ場所であることが多い)では必ず商売をしたと思われる。そういう場所で上総の特産品を売り、米や野菜という食糧のほか、都で珍重される特産品を仕入れた。数十人の一行は当時では何もしなくても目立ち、到着次第、近在の富裕者(長者)が商売のために群がってきただろう。更級の作者は、当時子供であったため、そのようなことは何も書き残していないが、流通の発達していない時代の地方では重要なイベントであったに違いない。逗留日数は集落の大きさによっても異なるが数日から1週間に及ぶこともあっただろう。帰任の旅が単に帰ることだけが目的ではなく、商売が重要な使命であったのなら75日かかっても、必ずしも大変ではない。単に帰るだけなら当時でも1ヶ月もあれば十分だっただろう。
以上は松太夫の推測だが、これを裏付ける国司帰任の旅の商売実態を記した文献はあるだろうか?教えてくだされ。