更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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上総国分尼寺は更級作者がいた頃、存在したか?

上総国分尼寺の存続期間



更級日記の作者が上総にいた頃は既に上総国分尼寺は廃絶していたことが考古学調査の結果判明している。奈良時代、仏教の振興策として国分寺と国分尼寺は同時に建立されたが、官寺としては東大寺を除き、平安時代までにほとんど廃絶している。根本的な原因はすでに平安時代初期から深刻化した国家財政の窮乏で、官寺の運営、施設の維持管理に莫大な費用を負担できなくなったからである。それでも国分寺は民間寺院として宗派は変遷しても寺名だけは現代まで存続するものが多いが、尼寺の方は完全に消滅してしまった。隣国の下総国分尼寺もそうである。創建の主旨は男女の別なく仏法を学ばせ衆生を済度しようという高邁なものであったが、政府の強力な保護なしには、治安の保証されない社会では尼寺は格好の悪人の餌食となり廃絶に追いこまれた。


上総国分尼寺は日本最大の規模であった。国分僧寺の規模とも併せ考えると、創建時の上総国がいかに豊かであったかが分かる。メイン画像は遺跡の上に復元された回廊部分である。市原市は瓦を除いて、当時の技術、材料で復元したために、これだけでも莫大な費用がかかったということである。出来うれば全部修復復元してもらえれば、観光資源としてはもちろん、後世へのこの上ないプレゼントになるのではないだろうか。

 

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