たけしば伝説考
たけしば伝説が伝える歴史的原像は何か
更級日記のたけしば伝説はこの日記だけが伝える話だという。竹芝という地名は東京港「竹芝桟橋」で有名だが、これは大正時代、埋立地に新たにつけられた竹芝町に由来するので歴史的地名ではない。
さて竹芝は平将門の乱に関して登場する武蔵竹芝との関連で話題にされる。例えば、森田悌はつぎのような見方をしている。
<以下引用>
『1020(寛仁4年)に上総国司の任を終えた父菅原孝標と一緒に帰京の途にあった『更級日記』の著者は、武蔵国を通った折に、かつて帝の姫君と親しくなった武蔵国出身の衛士たけしばの男が姫とともに郷里へ逃げ帰り、姫は連れ戻されかかったが都へ帰らないといい、結局許されて男は武蔵の姓を与えられ、武蔵国の支配を任され、姫と幸福に暮らした、という伝承を聞いた。孝標の娘が見たのは、たけしばの居館跡の礎石のみであったが、『更級日記』の中にかなり詳しくこの伝承を引いている。
このたけしばの男の原像がいかなる人物であったかは研究者の追求するところとなっており、八世紀武蔵国足立郡司家の出で藤原仲麻呂の乱鎮圧過程で功績をあげ武蔵宿禰を賜姓され、中央官人」の仲間入りをした丈部不破麻呂と、将門が国司との紛争を調停した足立郡司武蔵竹芝が考えられているようである。(竹内理三「将門記解説」日本思想大系)『古代政治社会思想』岩波書店1979)。丈部不破麻呂にしても武蔵竹芝にしても帝の姫君と逃げ帰ったということは考えられないが、不破麻呂は異例の出世をして武蔵宿禰を賜っているので、原像の一部である可能性は十分にあろう。
竹芝は名がたけしばの男と通じており、原像となっていることは確実だと思われる名前の通うことから、竹芝のほうがたけしばの原像としてより大きな比重を持っているのではあるまいか。郡司竹芝の富裕や、「撫育の方、あまねく民家にあり」(『将門記』)とされた治績がたけしば像形成の因子となっているのであろう。
しかし、将門の乱後八十年経った1020年に『更級日記』の作者が通りかかったときは、たけしばの跡が礎石のみだというのであるから、かつて栄えていた竹芝は急速に衰微し、礎石を通じて威勢がしのばれる伝説上の人物になっていたのである。将門の乱が起きたころは東国において大きな社会変動が起こりつつあり、律令時代以来郡司に代表される在地豪族層が退転し、代わって京下の王臣子孫・前司子弟などといわれる人たちが留任して積極的な開発を展開し、富裕かつ重要な政治勢力として浮揚してきていたのである。』
森田悌:新版「古代日本」⑧関東(角川書店)p.397