更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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当時の旅で宿泊は?

タイトル画像:西行物語絵巻、大和の国のとある里。西行が、これまで行を共にした修験者たちと別れる場面。昨夜この民家に宿を借りていた。向こうの方で家人が朝餉の準備をしている。鎌倉時代に入るとこのように旅人を泊める余裕のある民家も増えてきた。


当時の旅で宿泊はどうしていたのか、駅制はまだ機能していたか?



 少なくとも関東については駅の制度は全く機能していなかったとしか考えられない。しかし、京都に近い地方ではまだ存続していたことを伺わせる記録もある。承徳三年(1099)因幡の守に任ぜられた平時範の赴任時の詳細な行動が『時範記』として残されている(村井:「王朝風土記」)。そこには駅で国司の接待を受けた様子が記されている。

 ところが『更級日記』には、駅という言葉はもちろん、施設としての宿屋を思わせるものは一切登場しない。当時の旅では寺や民家があればそこに泊めてもらい、なければ野宿であった。泊めてもらう場合は当然宿代が必要だっただろうから、金の無い庶民は野宿が普通であった。貴族でも野宿せざるを得ない時は、庵(いお)と呼ばれる今ならテントを組み立てていたが、持ち運べる数が限られているから、雨でもなければ、それに入れるのは一部の者だけで、供の者の多くは文字通り野宿ではなかったろうか。庵に入れたとしても現代のテントと異なり防水性が悪く雨の日は大変だったに違いない。当時でも仮屋と呼ばれる粗末な小屋(現代で言えば無人山小屋のようなもの)が少しはあったようだが、そういう場所では数日滞在することもあった。

 延喜式によると下総国、上総間には井上(ゐかみ)、浮島、河曲駅が置かれていたことが知られる。井上駅については長い間、諸説紛々としていたが、考古学調査の結果から最近では下総国府のすぐ南、市川市市川の江戸川河畔付近ということに落ち着きつつある(山路直充:市川市考古博物館紀要20(1992))。これは、まさに更級日記の『まつさと』である。しかし延喜式制定から、わずか100年足らずで駅の正式名称が忘れ去られるものであろうか。河曲駅と比定される、千葉県庁付近も更級日記では『いけだ』と記され駅名の痕跡がない。このようなことから考えると、この地方では駅制が存続したのはかなり短い期間で、役人が決めた駅の名前など地元民の記憶にはほとんど定着しなかったとしか考えられない。

 

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