更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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大日本地名辞書に見る、おきなが(息長)

※タイトル画像
十王水(現地案内板)滋賀県米原市醒ヶ井

平安中期の天台宗の高僧、浄蔵法師が諸国遍歴の途中、この水源を開き、仏縁を結ばれたと伝えられる。もとより浄蔵水と称すべきところを、近くに十王堂があったところから、「十王水」と呼ばれるようになったという。


更級日記の一行は不破の関を越えた後、『近江国おきながという人の家にやどりて四五日あり』というように「息長」氏の家に逗留している。この息長氏の住む地域はどこであるかが一つの問題である。息長は古くからこの地域の地名であり、有力氏族であった。しかし、最近の文献にはあまり取り上げられていないので、明治33年出版の大日本地名辞書(吉田東吾編)から関係部分を紹介する。

以下引用



近江 坂田郡 阿那郷(和名抄、坂田郡阿那郷)



〇今息長村南箕浦村なるべし。朝妻郷の東に接し、おきなが川の谷なり。南に摺針嶺(すりはりとうげ)あり、中世は箕浦村と曰へり、今北箕浦を息長村と称す。
古事記掖上宮(考昭)段に「御子天押帯日子命者、阿那臣之祖也」とあるは此地の邑主の家なり、姓氏録「右京皇別、真野臣、和邇部、安那公同祖、天足彦押入彦命三世孫、彦国葺命之後也」とありて、即近淡海国造和邇臣などと一族にして、其後裔は吉備穴国造となる。国造本記に「吉備穴国造、纏向日代朝(景行)御世和邇臣同祖、彦訓服命孫八千足尼定賜国造」と見ゆ彦訓服は彦国葺に同じ、天押帯日子命の三世孫なり。



〇日本書紀垂仁紀の一書「注曰、天日槍自兎道河泝、北入近江国、暫住吾名邑、是以近江国鏡谷(蒲生郡)陶人、則天日槍従人也」と、而て通証曰「坂田郡、今吾名邑、有天日矛之故跡」。

按に阿那吾名は旧号にして、其後応神天皇の皇子、若野毛二俣王の領地となり、其王孫相続して息長氏と曰ふ、是より後は息長を以て此なる地名に轉したり。野洲郡なる三上神の女に、名は息長水依比賣と申すは日子坐王の御妻にして、夙に此地に住せたまへるにや、日子坐王また丸邇(わに)臣の祖の女に娶りて、山代の大筒木眞若王を生み、大筒木王の三世孫を息長宿禰王と申し、神功皇后則其女にましまして息長帯姫と号し奉る、故に応神天皇の御子若野毛二俣王は、息長眞若弟比賣を娶り意富富杼王を生みたまひ、其後裔は息長坂田酒人君これなりけり、而て日本武尊の「一妻之子、息長田別王、此王之子杙俣長日子王、此王之子眞若弟比賣」(古事記)とあるに参照すれば、息長氏の由緒の深きを知るべし、日本書紀、天武十三年、息長公等十三人、賜姓曰眞人、姓氏録、息長眞人、又息長連、稚渟家二俣王之後也。



〇氏族志、按三代実録、貞観中使近江坂田郡穴太氏譜図、與息長坂田酒人二氏、同巻進官、又温情極楽記、有坂田郡人息長某、息長近江地名、即其本貫なり、一条帝時、有近江筑摩御厨息長光保、見于外記日記。



息長川


今天野(てんの)川又箕浦川と云ふ、伊吹山の西南、彌高(いやたか)大清水の辺りより発し西南流、長岡醒井を経て西に折れ、筑摩の北に至り湖に入る、長凡五里天武紀に息長の横川(よかわ)と云ふも此なり。

にほとりの於吉奈我河はたえずとも君にかたらむこと盡めやも(万葉集)

横川の駅家は即今の醒井の宿にして、壬申乱の戦場も彼處なるべし、下の横川の條を併看すべし、旧説息長を沖中と説く。和訓栞云、息長川は沖中川とも書く、川の水尾の海中に入て、猶水すぢの青みたちて見ゆるを云ふと曰へり。賀茂季鷹云、息長川は近江に在り、沖中の説いかがにや、伴信友云、旧説に沖中と云ひ海の中を流る云。河海抄に曰ふ、にほ鳥のおきなが川はたえぬとも云々、是は鳰は息長き鳥なれど、久く水底に得耐へぬ事を云ふなるべし。


箕浦(みのうら)


中世の庄名にして、今息長村南箕輪村の二と為る。大字箕浦の息長村に属し天野川の北岸に在り、大字新庄と相接す、戦国の頃、箕浦氏新庄氏と云は、即此地の郷士なり。
〇箕浦は古の息長里にして、江北江南美濃三路の交會たり、保元物語に六條判官為義坂下(滋賀郡)より箕浦に走り、東国に赴かんと欲して果たさざりし由を記す、蓑浦亦此なるべし、六角浅井の箕浦合戦は、長享年後兵乱記には享禄四年四月六日の事と為す、他書には大永元年と為せり、摺鉢嶺地頭山参考すべし。(以下略)


醒井(さめがい)


今醒井村と云ふ、醒井の駅の南は霊仙嶽そびえ、山中に丹生と云ふ大字あり、此村は箕浦庄の東に接し、息長川の南岸に在り、摺鉢嶺(すりはりとうげ)番場の北一里、柏原駅の四五十町なる山駅なり、則天武紀(壬申乱の條に)「村国男依等、與近江戦息長横河、破之」とある地にして、続紀「天平十二年十二月、車駕幸伊勢、遂到美濃、帰従不破發、至坂田郡横川頓宮、又延喜式「駅馬鳥籠横河各十五疋、坂田郡伝馬五疋」とある皆此也、和名抄には坂田郡駅家郷と曰ふ、而て今の丹生を上丹(カミニフ)郷と録したるを見れば、此駅家は下丹郷と称したるならん。


居寤水(いざめのみず)


古事記、日代宮段云、倭建命、謄伊服岐能山還到玉倉部之清水、以息坐之時、御心渉稍寤、故号其清水、謂居寤(ヰサメ)清水也

〇按に玉倉部は柏原村のタケクラベと称する地、若くは美濃国不破郡玉村なるべし、然れども此醒井駅も古より倭建命の故跡を伝へ、殊に其一妻に息長田別比賣と申奉るありて、即息長君の外戚家なれば、参考の為めに此に係ぐ。

〇木曽路図會云、居寤清水は今醒井駅の中、民家の前に在り、傍に倭建命の腰懸国鞍掛とて大石あり。

〇古事記伝云、居醒の清水は美濃ならむ、然れども東関紀行に、「音に聞しさめがゐを見れば、陰くらき木の下の岩根より、流れ出る清水、あまり涼しきまですみわたりて、実に身にしむ斗りなり」撰集抄に此清水を「延喜の末に旱のせしとき、仲?と云僧の水を湧さんとて剣して、山の岸を切りたるに、忽流出初たる由」記せり、されど醒が井の名は倭建命の御ことに依れる如く聞ゆ。

藤川日記云、さめが井と云所、清水いは根より流る、一筋」は上より一筋は下より流れて、末にて一つに流れあふ、まことやらむ、此水は美濃の養老の瀧につづきたりと曰へり、暫く此にやすみて、

夏の日も結へば薄き氷にて暑さややかて醒か井の水


横川(ヨガハ)


息長川の一名にて、古は東山道の通路ここに至り息長の渓澗に沿ひて東西に走るを以て横川(ヨカハ)の名を負へるならん、(比叡山の横川と混ずべからず)更科日記曰「不破の関あつさ山(柏原村梓河内)など越えて、近江国おきなかと云、人の家にやどり云々」横川駅は即醒井にて、息長とも呼べるならん。


摺針嶺(すりはりとうげ)


南箕浦村に属す、東は霊仙嶽に連り、西は湖岸に至る、山上に番場の駅あり、山南は鳥居本村、山北は醒井村にして美濃路に係る、其絶頂は番場駅の西南に在り、湖山の観望太だ広し、鉄道今嶺の南を繞り(めぐり)、米原を車駅とす。

兼良公藤河記云、すりはり峠を南へ下るとて、右にかへりみれば、竹生島などかすかにみえて、遠望まなこをこらす、麓に神田(こうだ)といふ所の、一つなき田などみゆ、又左の方には聳えたる岩に、松一本ある、その下に石塔あり、西行法師が塚といひ伝へたるとなん、(按神田は今鳥居本大字甲田なり)

南行数里下陽坡、西望平湖遠不波、孤島屹然何所似、瑠璃万頃一青螺、

たひころもほころびぬれやすり針の峠にきてもぬふ人のなき

過磨針山  僧義堂


行到磨針最上峰、一湖春水浸天容、眸擡稍覚王居近、五色雲浮喜気濃、(空華集)


戊申正月九日、發京急帰大垣城、


路到磨鍼感忽生、馬頭遠水夕陽明、掃除天下兵塵了、與此湖光一碧平、    小原鉄心


謡曲東国下云、まだ通路もあさぢふの、小野の宿より見渡せば、斧斤を磨きしすり針や、番場と音の聞こえしは、此山松の夕風、旅寝の夢もさめが井の、自ら結ぶ草枕。
〇大永六年九月、六角定頼江北へ向け進発せられ、先ず其本陣は摺針山に据らる、十二日亮政地頭山の西六波羅山へ移り、其南の蓮華寺を引包む、伏勢は両山の間さいかち森に隠し置く、定頼は峠の南東五町計の岑へ打上り、ついに合戦に及ぶ。  (浅井三代記)

 

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