遠江国の駅家ー横尾駅について
『延喜式』によれば遠江国の駅家として、猪鼻、栗原、□摩、横尾、初倉の五駅がある(延喜式巻28、兵部省、国史大系延喜式後編p.711)。倭名類聚抄には浜名、敷智、磐田、佐野、秦原の各郡には駅家郷があり駅家に対応している。猪鼻、栗原、□摩(おそらく、伊摩)、初倉については既に言及したので、ここでは横尾駅について述べる。
駅と駅家郷のある郡は次のように対応している。
浜名郡(猪鼻駅)、敷智(ふち)郡(栗原駅)、磐田郡(伊摩駅)、佐野(さや)郡(横尾駅)、榛原郡(初倉駅)。
横尾は松尾の誤りか?
横尾駅については延喜式のみが伝える駅名という。これについて大日本地名辞書(吉田東吾)には「横尾」は「松尾」の誤りではないかという掛川志稿の意見を紹介している。
まづ、大日本地名辞書は次のように述べている。
<松尾郷>
和名抄、佐野郡駅家郷。延喜式、横尾駅。
〇今掛川町に松尾てふ地名のこり、横尾は松尾の誤なりといふ。
『延喜式に載する、佐野郡駅家郷横尾駅は他書に経見する所なし。今城中に松尾(マツオ)と呼ぶ所あれば、横は松の字の誤歟。蓋、日根郷より分かれて懸川とも呼び、今の城西にありし古駅なり。東鑑には「養和二年五月、伏見冠者藤原廣綱、日来住遠江国懸川邊」とみゆ。今城西に西宿中宿と呼ぶ所あり。是今の掛川にある。西中町の名の原ゝ所、すなわち古駅家の遺趾也。』
<懸川城趾>
掛川町の北なる山岡に倚る、今川氏領国の比、其臣朝比奈備中守泰煕の創始歟。(中略)本丸の南に松尾曲輪あり。池を松尾池と云。昔は松尾口とて一方の城門あり。河には橋をも掛けしなり。松尾曲輪の内、池東の低處数十歩の間を特に懸河と呼ぶ。此に代々相伝えて牓示を立つ、其故は詳ならねど、国初以来ありしものと見えて、元和九年の古図にも見えたり。是に因て地勢を考るに、池の北岸都て懸崖なり。恐らくは是築城前には水流の迫りし處にて深淵なりし故、天険を恃んため、其口を塞て川を南へ移し易へ、其趾を要害の大池をなしたるものならん。(引用終わり)
以上の古書の記述からわかることは
①室町時代に掛川城が築城されるまで、そこは山だった。
※最初の城は現在より少し北の古城趾と呼ばれる場所
②城南部は松尾曲輪と呼ばれ、それ以前に「松尾」と呼ばれる地域だった。
掛川城松尾地区は古代駅家として環境は適当か
ところで、この地は駅家としての条件を満たしているだろうか。
駅家敷地として、現在の掛川城本丸を考えてみる。ここは逆川から引き上がった小高い場所に在り、洪水時にも水没の恐れがない。もちろん水の便は問題ない。面積的には築城以前、緩傾斜地であったにしても100m四方位の場所は十分ある。
駅間の距離については、初倉―松尾が21㎞でやや長い。松尾-伊摩間は16㎞で標準的。
結論として松尾が駅家地であっても無理はない。