三河国鎌倉街道(国府から岡崎まで)
三河国府から矢作河畔に到る区間は鎌倉街道と近世東海道がほとんど一致しない。その理由は急峻ではないが両側から山が迫る”地峡”を通過することによるものである。地峡の底には沢が流れたり、湿地帯があり著しく通行困難であった。治水技術が進み江戸東海道の原型らしきルートが通行可能になったのは室町時代以降と言われる。それ以前は山に挟まれた地溝部には沢が流れていたため、旅人は水を避けて両脇の丘陵に上がるしかなかった。山裾あるいは中腹の起伏がゆるい部分が道となったが、出水でがけ崩れなどが起こればその都度ルートが変わり、時代ごとに街道は一定しなかった。ここでは尾藤卓夫氏の『平安鎌倉古道』の記述を参考に古道を推定した。
明治22年地形図にプロットした鎌倉街道推定ルート
(1)長沢から藤川まで
宮路山から下りると赤石神社前に出る。この付近は長沢と呼ばれる集落で、鎌倉時代以前には沢が流れる地峡地帯であったが、現在は国道1号線(東海道)と名鉄名古屋本線が通っている。『平安鎌倉古道』によると”古道は赤石神社境内から坂を下りたところに裏山に入る入口が目につく”とあるが、神社は一般人は立ち入りできない(2012年現在)ので、古道は確認できなかった。大正7年測図の御油二万五千分の一地形図を見ても、赤石神社から鉢地(はつち)に抜ける道は記載されていない。『平安鎌倉古道』によれば、その調査時点(昭和30から40年代)までは丘陵のヘリに沿って山中を抜ける道が残っていたようだ。古道は鉢地川の対岸に菩提院が見える辺りに出て川を渡ったらしい。いずれにせよこの区間は既に森林に戻り、令和の時代にはたどることができない。
本宿神明社 由緒記(現地案内板)
御祭神 天照皇大神
第十二代景行天皇の御戌宇庚四十年(西暦111年)東夷多く叛きて騒動しければ、第二皇子日本武尊、左右に吉備武彦命、大伴武日連を相副られ三河国に御下向、当地を通御在らせられ給ひ、遥かに山上を見給ふに、紅白の雲棚引き、恰も錦の御旗の如くなりしかば、尊、御感の余り峰に登らせられ、天照皇大神を遥拝して戦捷を祈らせ給ふ。
のち、天武天皇大宝元年丑(701)、僧行基、諸国を行脚し此地に来たり、日本武尊の霊場と聞き、其の所の杉を切り、観音の像を刻み、一堂を建立して此の所に安置し、皇大神の本地仏となせり。その後弘法大師来たりて堂中に三十七日間の密法を修し、国家安泰を祈願せしと伝ふ。
南朝後亀山天皇の元中二年(北朝後小松天皇の至徳二年)(1385)足利将軍義満の時、龍芸和尚、二村山法蔵寺と号し、堂中に祭祀せる皇大神を今の地に遷し奉り、村民の産土神として社殿を建立し崇敬しむる事、今より六百余年前のことなり。
当時、本宿は戸数四戸なりき、元四ツ家と云ふ地、すなわち是なりといふ。
その後、大正九年(1920)尊社に列せられ、神饌幣帛料供進の神社に指定されたるも、昭和二十一年三月、神社行政改革が実施され、昭和二十八年に宗教法人「神明社」となりて今日に至る。
平成二十年六月 本宿神明社
菩提院から北西に向かい県営本宿住宅の間を抜け、円如ヶ入を経て、山綱町の方に下る。途中の本宿町には室町頃創建と思われる本宿神明社がある。この脇を抜けて、山綱駅家跡推定地に向かう。福祉施設なかしばの北側が山綱駅家跡候補地である。
愛恵協会なかしば、ここは以前”湯の里賀勝苑という温泉施設であったが、現在老人福祉施設となっている。この”なかしば”敷地も武田勇氏によれば井戸跡があり山綱駅家跡地の可能性があるという。ただし、この場所は鎌倉街道路線より小高い場所にある(手前の方は駐車場にするため、写真のように掘り下げられている)。駅家跡としては画像に示す北側の住宅地の方が適当である。写真では住宅がびっしり建っているため、方形の地形はわからないが地図では、はっきりわかる。ここから街道は東海中学校の校庭を抜けていたようだが、歩く場合には周囲を迂回するしかない。
山綱駅推定地から街道は青木神社に向かう。尾藤卓夫氏の調査時期には東海中学のグラウンドをつっきり、裏山を越え青木神社の方向に出たようだが、その道は今も存在するのだろうか。昨今は中学の敷地を無断で突っ切って裏に出ることはできないので、周囲をぐるっと回る。裏山に向かう方向には画像のような一本の道がある。これをたどると舗装は途中で途切れるが、古道の雰囲気がある山道となる。ところが、尾根近くになるとその道も途絶えてしまう。やむなく藪こぎして尾根に上がるとそこには踏み跡があり、尾根道となっていた。そこをたどると、高圧線の送電塔に出る。ここから尾根の南に下りる道があり青木神社前に出る舗装道路に出られた。しかし、結局、今回たどった道は鎌倉街道ではなく、中部電力の送電塔メンテナンス用の作業道路であることが分かった。
尾藤卓夫氏の通過道路はもっと北側であり、その出口は青木神社画像の脇に出てくる道ではないかと推測される。ただし、その脇道は裏山の入り口で途絶えているように見えるので、現在は消滅し廃道となっているかもしれない。
次に社前から傳道寺、山中保育園を経て山中小学校に向かう。下の傳道寺の正面は舗装道路に面しているが、鎌倉街道は寺の裏の細道である。この辺りは、まだ古道の雰囲気が良く残っている。
舞木(まいぎ)公民館の敷地には古びた社殿がある。神社名もなくお祀りされている様子もないので、既にどちらかに合祀されたのかもしれない。この先の交差点を左折して山綱川を渡る。これから先は道が右、左折があり少し面倒であるがこれが鎌倉街道という。舞木公民館前から、そのまま直進すれば山中八幡の参道となる。神社にぶつかり左折すれば鎌倉街道と合流する。
山中八幡宮脇に鎌倉街道入り口がある。突き当りの民家の脇から入るように街道は続く。
山中八幡宮(現地案内板)
家康の家臣菅沼定顕が上宮寺から糧米を強制徴収したことに端を発した三河一向一揆で、門徒に追われた家康が身を隠し、難を避けたという鳩ヶ窟があります。一揆方の追手が家康のひそんでいる洞窟を探そうとすると、中から二羽の鳩が飛び立ちました。
「人のいる所に鳩がいるはずはない」と追手は立ち去ったといいます。例年正月三日には五穀豊穣を祈る御田楯神事「デンデンガッサリ」が催されます。
山中八幡の南側の林を抜ける古道をしばらく行くと舗装道路に出る。前方にジェイテクトの工場が見える。手前は水田であるが、畦道を伝って工場裏の丘陵裾にとりつく。この道は途中までは容易に歩けるが最後は畦道になり、それを伝って舗装道路に出る。
その路地を奥に進むと、稱名寺本堂と隣接して明星院がある。両寺院を分ける路地が市場町と藤川町の町境であり、ここが鎌倉街道筋でもある。
明星院(俗称ほうえんさん)現在は真言宗醍醐派 現地案内板
元々明星院は愛称ほうえんさんで親しまれ、元来、方位学、易学等を主とする密教系寺院で創建は不明であり、市場と共に加宿市場に来たと伝えられている。ただ幕末から明治初頭にかけて寺子屋を営み、日本の近代化に先がけ藤川学区の教育の信をなした学問処であり、今も筆小塚などの足跡が見られ、それにまつわる文書も現存している。醍醐派に転宗は歴史的に新しく明治以来建学の精神が受け継がれている。
明星院から稱名寺に裏で通り抜けられるようになっていないので、いったん東海道に出て稱名寺正面入口から入る。
稱名寺
創建は平安中期、円融天皇の時代という。横川の恵心僧都(942-1017)が母、安養尼の病気平癒のため観音像を作り祈願したことに始まるという。(『平安・鎌倉古道』p.222)
愛知県指定文化財 稱名寺(現地案内板)
彫刻 木造阿弥陀如来坐像 一躯
本堂に本尊として安置されている阿弥陀如来坐像で、木造、寄木造り、造高は87.0cm。形状は、螺髪をやや細かめの粒状に彫り出し、肉髻殊・白毫相を表す。また、耳朶は環状で、三道相を表す。衲衣は左肩を覆い、右肩に少しかかって正面に回り、端は再び左肩にかかって背部に垂れる。来迎印を結び、右足を外にして結跏趺坐する。
やや大きめの頭部、張りのある頬、玉眼による知的な眼差し、腹部正面の衲衣の折り返しを単純な弧線で表現している点が特徴として挙げられる。これらは、鎌倉時代を中心に活躍した仏師の集団である慶派の初期の作品に多く見られる作風で、同時代に制作された仏像との比較から、鎌倉時代初期のものと認められる。瀧山寺(滝町)にある運慶・湛慶の作品に次いで、当地域に伝存する初期慶派正系の優れた作例として重要である。
岡崎市教育委員会
人形処脇の路地から出ると高札場跡がある。江戸東海道と交差した鎌倉街道は問屋場跡手前の小林商店脇の路地から入って山綱川を渡り、関山神社方向に向かったという。実際に道をたどると名鉄線の線路にぶつかり横断できない。
藤川宿高札場跡
この高札場跡は藤川町と市場町との境にあり明治21年新政府地積作成に当たり、本来三間四方あり、大きな高札場であった。加宿後棒鼻は移動したと思われるが、高札場はそのまま幕末を迎えたと思われる。ことに特異なことは地積公図を作るに当り、藤川と市場との字界(境界線)設定につき地元両町にて高札場を二つに割り、また東海道も道路中央で鍵状に割った特異形状となっている。長年経過のうち代替地等で民間地となり現在も残っている。
藤川宿の高札場跡
高札とは立て札ともいい、法度、掟書、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い市場、辻などに掲げられた板札をいう。その目的は一般の人たちに法令を徹底させるためのものであった。
藤川宿の高札場はここの場所にあり、記録によると「高札場 高 壱丈 長さ 弐間半横 壱間」
とあり、規模の大きい広い場所であった。
ちなみに、当時掲示されていた高札は、八枚あったようで、大きいものは横238センチ、縦53センチもあり、もし当時あったものを八枚並べるとすれば正面に横二面ずつ、四段に掲げて常時掲揚していたものであろうか。
現在保存されている高札は六枚あり、いずれも岡崎市文化財に指定され、内、三枚は資料館に掲示してある。
藤川宿まちづくり研究会
平安・鎌倉街道の渡しは現在のJR東海道線の鉄橋のあたりであったと言われている。現在はそこで渡るわけにはゆかないので、堤防の上の道を下流の国道橋まで迂回して渡り、JR鉄橋まで戻ってくる。
<関連寺社>
赤石神社:愛知県豊川市長沢町日焼53
菩提院:愛知県岡崎市鉢地(はつち)町寺前28
神明社:愛知県岡崎市鉢地町高山下2
なかしば(2011年に閉苑した湯の里賀勝苑跡地):愛知県岡崎市字中野5-129
岡崎市立東海中学校:愛知県岡崎市字中柴51
青木神社:愛知県岡崎市嶋沢46
(株)ジェイテクト岡崎工場:愛知県岡崎市市場町字桐山8
傳道寺:愛知県岡崎市山綱町字下屋敷62-1
明星院:愛知県岡崎市市場町元神山6、17、24
稱名寺:愛知県岡崎市藤川町字中町南2
(2)藤川から美合
線路沿いに東に戻り、徳性寺向かいの踏切を渡り、地下道で国道1号線を横断する。字名、川向(かわむかい)という集落は、地元の人によれば昔は山綱川の北側(川向)が藤川村の中心だったという。一体いつの時代のことだろうか。
関山神社下の鎌倉街道らしき道はすぐ途絶える。
スリジェというパン屋さんの所で国道1号線に出る。見落としそうになったが、このパン屋さんの建物の東側には”喫茶いこい”の入り口があった。このお店は尾藤卓夫『平安鎌倉古道』にも目印として登場する。ここで昼食とし、帰り際にこれから行こうとしている”駒ノ爪”の場所を尋ねたが、駒ノ爪という字名はご存じだったものの、実際の岩の所在はご存じなかった。
国道1号線に出て川沿いに歩くと三河高校入口の橋がある。橋を渡ると川沿いに小径があるのでこれを辿る。駒の爪はこの道の脇にある筈?(未確認)。
駒ノ爪について
駒ノ爪とは山綱川沿いの鎌倉街道脇にあったという岩である。形が馬の蹄に似ていることからその名がある。街道の目印としてその存在が着目されていた。岩の位置は昔から変わらないはずだが、山綱川の方が丘陵側に移動しているため川岸ぎりぎりにあるらしい。『平安・鎌倉古道』によれば三河高校入り口の橋から約300mとあるが、実際に歩いてみると岩らしきものは下の画像くらいしか見当たらなかった。これが駒ノ爪だろうか?全く自信がない。因みに橋の脇から入る川沿いの道は入り口に近い部分だけは道らしいが、途中から木々、倒木、下草の繁茂で歩くのが非常に困難であった。
川の丘陵側から川を渡って舗装道路に戻り北西に道をたどると宝塔寺に着く。
さらに北西に進み船山神社を目指す。船山神社周辺には既に廃寺となった恵源寺など、往時には宗教施設が集落を形成していたという。恵源寺は今も字名として残る。街道はここから美合小学校方向に進み、その裏手を回り山綱川に出る。
美合小学校の裏を通り川に出て橋を渡り美合交差点に出る。流れは度々変わっているので、実際に川を渡った場所はわからない。
<関連寺社>
関山神社:愛知県岡崎市藤川町字王子ヶ入14
宝塔寺:愛知県岡崎市字前波28
船山神社:愛知県岡崎市岡町船山13
美合小学校:愛知県岡崎市岡町南石原30
(3)美合から矢作渡
美合から丘陵を現在の東岡崎駅の方に、ぐるっと迂回し六名を南下、現在の東海道線の鉄橋辺りにあったといわれる矢作渡しに到る。美合から直接丘陵を西に横断し渡し場に出れば距離が短縮される。しかし当時の自然地形では藪こぎをしながら山を越え、丘を下りたら湿地があり道のりは長くとも丘陵の裾を迂回したほうが、労力は少なくなると想像される。この区間で検討すべき点は美合から現・名鉄東岡崎駅までの具体的ルートと、矢作川の渡しが江戸東海道の矢作橋の位置ではなく、ずっと下流域に置かれていた理由である。
①美合から東岡崎まで
この区間の経由地について確たる文献情報はない。尾藤卓夫氏は『平安鎌倉古道』で美合から生田(しょうだ)、仁田を経て大西(神殿)に向かうという説を紹介している。大正9年測図の2.5万分の1地形図にその位置を示す。
この生田は現在の美合町生田屋敷(標高24m)ではなく日吉神社の西の美合町生田である。この辺りは地形図に見るように丘陵の裾であり沿道に日吉神社が位置する。
古道は確証はないが古道の条件から、地形図に示すように低地部分を避け、丘陵の縁を辿り仁田の辺りで、現在の名鉄名古屋本線のコースに合流したのではないか。丘陵を辿る道は大正9年の地形図には記載されているが、現在の地図に対応する道路はなく、代わりに名鉄の線路がある。つまり、どういう経緯か古道が鉄道用地として買収されたのである。その結果、男川(おとがわ)駅から東岡崎駅まで2㎞ほどは鉄道でたどる鎌倉街道となる。仁田(現在の男川駅近く)から先は、そのまま名鉄線の経路で東岡崎に到るルートが自然だが、下の引用に示すように尾藤氏は古老の意見として山中を抜け妙大寺に至るルートを紹介している。ただ、このルートは、丘陵自体が大規模宅地開発により全く地形が変わり、現在は古道の跡をたどることはできない。前掲、地形図に緑線で示す小径に往時をしのぶのみである。一般的に言えば名鉄線ルートが丘陵の裾で見晴らしがよく、鎌倉街道の条件によく合致する。もちろん、もう一つのルートも主道が通れないときには抜け道となったであろう。
ページ末に鎌倉街道推定ルートを走る名鉄名古屋本線、美合駅から東岡崎駅区間の動画を掲載した。
<関連寺社>
地蔵寺:愛知県岡崎市美合町字西屋敷45
日吉神社:愛知県岡崎市美合町字西屋敷150
天理教今道分教会信者会館:愛知県岡崎市美合町生田4-2(歴史的施設ではない、単なる地理的目印)
生田屋敷(生田城跡):愛知県岡崎市美合町生田屋敷65(この辺りは水田地帯)
萬燈山吉祥院:岡崎市明大寺町字仲ヶ入38-30(注.吉祥院は明治44年、この地に移転してきたもので歴史的古刹ではない)
<以下参考引用>(尾藤卓夫、『平安鎌倉古道』p.226(中日出版社))
『仁田から丘陵へ上がり、ほぼ名鉄本線に沿って二百メートル、大西向山で鉄道を渡り南西へ上り坂を十分で二俣(地名)に出る。
一説には鉄道沿いに万灯山(吉祥院)までの直線状の道を古道とする説があるが、古老の話では作手街道の延長で大正十四年鉄道敷設以前は南から北へ傾斜が強く、一度大雨でも降れば到底安定した道ではなかったとの話に加えてとの話に加えて、ここ向山から南西は明大寺に通ずる道が一本だけ、人ひとり歩けるほどの道があった。
十二、三年までは道影もあったが、現在は広大な竜美ヶ丘団地で推定せんさえ困難であるが、強いて推定が許されるならば、二俣、森の旧地名から野鳥の森の北をかすめて、問屋団地西入口と仕出し屋の間を左へ曲げ、信号も右へ振って、ほぼ直線上に北西へ向う。もちろんこの推定線上は古道を立証できるものは見当たらないが、明大寺へ向かう向かう昔からの山中の唯一の道で、小さな谷の上を桂馬の形で、大きな三つの池のヘリを伝って行ったとの話など地理的に、距離的に無理のない線であると考えられる。
信号から約五百メートル、右側の三島小学校と左側の県立岡崎高校の間の道は小豆坂、馬頭、桑谷から藤川へ出る別の鎌倉街道と合流している道でもある。
県立高校の北から左へ曲がって次の信号の手前を右に坂を下るあたりは「伝馬」あるいは「鎌倉伝馬」とも伝えられる古地名で有力な立証点である。そして伝馬の西が、今は廃寺となった明大寺跡である。』
以上引用終わり
②東岡崎から矢作(やはぎ)渡し
名鉄東岡崎駅の辺りは明大寺(みょうだいじ)町といわれ、古く鎌倉時代には矢作東宿という宿駅であった。明大寺町馬場東あたりで名鉄線のコースから外れ安心院の方に下ったあたりの平坦地が鎌倉時代以前からの宿営地であった可能性が高い。
平安末期から鎌倉時代にあったと思われる妙大寺は火災により廃絶し、その名のみが明大寺として残った。現在、安心院に伝えられている十一面観音は義経の念持仏であったという。大正15年刊行の岡崎市史によれば源義経が所持していたが、のち浄瑠璃姫御前の信仰仏となり、姫の死後、安心院の本尊とされたという。それは今、現在子育て観音と呼ばれている。画像の赤子を抱き二人の幼児を連れた地蔵様もそれにちなむものか。
安心院(現地案内板)
岡崎市指定文化財 彫刻 木造釈迦如来坐像一躯
像高 32.8cm 寄木造、玉眼嵌入、漆拍。
安心院は成瀬国平が大檀那となり、龍沢永源を開山として創建した曹洞宗の寺院である。本像の台座裏の墨書銘に
文安五戊辰年八月十五日
三州額田郡高宮村
金峰山安心禅院
諸堂建立成就
本願施主当国六名影山城主
成瀬大蔵佐国平(花押)
開山龍沢叟
住持芳源代
と記され、六名影山城主の成瀬国平が文安五年(1448)八月に当院の諸堂を完成させたことがわかる。
この像もこの時期に造られたらしく、像自体の様式とも矛盾しない。なお、光背は後補のものと思われる。
昭和三十五年三月十日指定 岡崎市教育委員会
六所神社(現地案内板)
七世紀中ごろの創立。松平氏(徳川将軍家の祖)は、初代親氏の時から産土神(うぶすながみ)として東加茂の六所明神を崇敬していました。其の後、松平氏の勢力拡大にともない、七代清康のころ当地に移ったものです。1542年、徳川家康が岡崎城内で生まれた折りにも産土神としての拝礼があったと伝えられています。華麗な彫刻・彩色がほどこされた、権現造りの社殿は国の重要文化財です。
路地をたどり龍海院、金剛寺、諸神神明宮を参拝し熊野神社前に出る。
両(諸)神神明宮
かつて上宮、下宮の二つに分かれていたものを天正七年(1580)、現在地に合祀したためこの名がある。この神社は矢作東宿が開かれたとき街道沿いに奉祀された。一名、星降神社ともいわれ日本武尊伝説もあるという(尾藤『平安鎌倉古道』p.227)。
鎌倉街道は画像正面の道ではなく境内の北東から南西に通過していたという。
鎌倉街道は熊野神社前から南に向かい重幸寺、真宮神社を経て矢作川、東海道本線鉄橋前に出る。
熊野神社の隣にある無量寺が尾藤『平安鎌倉古道』にある観音堂と思われる。寺の正面向かって左に観音像がある。
鎌倉街道は寺の裏を通る。
真宮遺跡(国指定史跡)現地案内板
真宮(しんぐう)遺跡は矢作川東岸の段丘上に立地する、縄文時代から鎌倉時代にかけての集落遺跡です。昭和48年、区画整理中に発見され、遺跡の総面積は約40,000㎡に及ぶと推定されます。発掘調査では縄文時代晩期の住居跡や土器棺墓が多く出土したことから、三河地域の代表的な集落であるとともに、当時の墓制を明らかにする上で重要な遺跡として注目されました。昭和51年に約9,500㎡が国指定史跡となり、史跡公園として保存されています。
眞宮神社鎮座の由緒(現地案内板)
人皇十三代政務天皇の御代(紀元791年1805年前)に紀伊国明月新宮を我が額田郡に移し眞宮祭稱す。其後人皇二十八代宣化天皇の皇女小石姫の命紀伊国及三河国を領し給ひ御在所を当影山に定め給ひ皇子六柱を産せ給ふ。皇子は即石桐王、足取王、麻苔王、大它王、伊美加王、山代王、なり、皇子産ませ給ふ毎に産帯に石を抱き以て眞宮に安産を祈らせ給ふに六柱とも安産し給いしかは喜び六石を祭らせ給ふ(現在の字石神)此産神石、位置を平田石、二を黒門石、三を夏木石、四を草集石、五を龍童石、六を小女石、と云ふ。即ち平田石は石桐王の産神石、黒門石は足取王の産神石、夏木石は麻苔王の産神石、草集石は大它王の産神石、龍童石は伊美加王の産神石、小女石は山代王の産神石、ゆえに此の地を六石邸と称す、六石は後眞宮に奉祭す、其の後天正年間(紀元2247年349年前)山中弾正左エ門、岡崎に築城するに際し当神に奉祭せる六石の内四石を各所に埋めて守護神と為す。龍童石を城心に埋めたるを以って龍ヶ城と云ふ、平田石を城北の門に埋めて平田門と云ふ、草集石を城の辰巳の方に埋めて草門と云ふ、黒門石城の東方に埋めて門を築き黒門と云ふ。
天仁年間神尾中條額田郡を御支配あり、此時当眞宮へ御領として石高七十石を寄進給ひ萬民信仰厚く安産の神様として祈願する人が絶えず。時に神主は七人を数へたと聞き、其の頃紀伊の国より眞宮様の返還の求めが来るも御許しにならず徳川時代となり、政変により焼失し御神体は安全にして寺嶋の寺、今の正福寺に預けて、預り証が出て、其の後八代将軍吉宗の時代となり之を知り、眞宮神社を再建せよと命し本殿を再建し、正福寺より受け預り証は正福寺に有りたるも現在不明、其の頃残り二石を本殿下に埋、吉宗公は此の時に六邸を改め六ツ名とす、云ひ傳にて今尚残る眞宮神社の御神体の尊さを偲び今は只、六ツ名の地名あるのみ。
境内八百四十一坪、社有林反別八反三畝二十四歩、大正二年十一月 氏子六十九戸
昭和四十四年から五十五年にかけて岡崎市施行による南部土地区画整理事業が行われ町界名が変更されたこと機会に、熊野神社(中六名)市杵島社(今御堂)を眞宮神社に合祀し地域住民の輪をさらに深めるとともに郷土の発展を祈念するものである。
時に三社合祀建設昭和五十五年十月吉日
平成八年八月吉日記
矢作川の流域は時代により変遷しているため渡し場は、その流路の影響を受けるが、鎌倉時代以前の矢作川流域の地形は明らかでない。武田勇氏は「条里前における矢作川流形」として流域の推定を行っている。
武田勇『壬申乱と條里遺構』p.13、昭和52年(私家版)
原出典は大日本史料、佐々木文書、応永六年(室町時代1399年)
文書内容:岡崎市久後崎における六ツ名堤の建設に関するもの
江戸時代の東海道は岡崎城が大平川(男川)の北岸に在ることもあり、矢作川の上流を渡る。鎌倉街道が下流域で渡河する理由として矢作川と大平川が合流して流れが一つになる点、すなわち現在のJR東海道線の鉄橋辺りで渡れば一回の渡船で済むためとされているが、地質的に六名台地が安定した場所であったことにもよる。
以下に「岡崎市の土地と震災対応」というホームページから岡崎市周辺の地質を示す。岡崎市西部矢作川沿岸部は沖積層で柔らかい地質であるが、六名台地部分がしっかりした台地として矢作川に面している。
<関連寺社住所>
安心院:岡崎市明大寺町字馬場東54
竜海院:岡崎市明大寺町西郷34-1
金剛寺:岡崎市明大寺町西郷中12
両神(もろかみ)神明社(諸神神明宮):岡崎市明大寺町諸神3
熊野神社:岡崎市久後先町郷西
重幸寺:岡崎市上六名2-2-1
真宮神社:岡崎市間宮町5
今御堂:
天白神社:岡崎市天白町吉原85