更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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鎌倉街道の実像

鎌倉街道の実像
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  古代に建設された駅路は平安時代中期までに相次いで廃絶したようである。しかし国土の拠点を結ぶ街道の必要性がなくなった訳ではなく、必要に応じて合理的な道筋が連結され街道となっていったものと思われる。これが鎌倉時代になり交通量が増えると、幕府の方針として、宿泊設備を含め街道が整備されるに至った。しかし、それに関する具体的文献は少ない。鎌倉街道の性格について郷土史家、武田勇氏は以下のように語っており、かなり正鵠を得ているので、ここに抜粋引用する。(猶、氏の調査は昭和30年代から40年代にかけて行われた。)

  以下引用


鎌倉街道の実地調査


鎌倉街道は今なお伝承として、なぜ残ったものか。どういう訳であろう。所々に残る徳川時代の東海道の松並木は、あまりにも美しい風致をなしている。ところが、その前時代の鎌倉街道はまことにみすぼらしい。

  けれども、その遺道は八百年近くの前のもので、昔を懐かしむ心は何時の時代も同じである。故にこれが、次々に口称され、その遺称が残されたものではないか。
  鎌倉街道実地調査には十余年の歳月をかけ矢作川の東西、八里間の各沿線の字名と、各筆記入の詳細図をも作成したが、その街道の道形は不思議に接続するようである。

  ところがそれに使用した実測原図は明治年代のものであるので、調査当時には、己にその道形が消えているものもあった。

  その遺称道と云うものは今は極めて少なくまた調査の最初、在った遺道ものち、次ぎ次ぎに消えて行く現状である。またその遺道が、たとい残っているとしてもそれは、利用度の少ない山道であったり、また僅かしか、利用されない草茫茫の農道である。

  それではその鎌倉街道であったことを実証するものが、有るかと言うと、それは別に際立ったものもなく、僅にそれに因んだ古い字名や、塚や墓位いのものである。八つ橋の根上がり松の塚は今の道端にあるが、赤坂の承久戦の際の墓等は現在民家の中の裏にあるので容易に探し出せない。

  そこで八百年の後に残っ遺称道も何時迄も続くものではなく、現代の激しい開発に於ては一たまりもない。それ迄にも富士山の噴火もあれば、浜名湖の決壊もあり、洪水による木曽川河道の変改もある。街道というのもはかく天災から常に逃れられないという宿命も持っている。

  鎌倉街道は全線新設のものではないらしいと言ったのは、この事で、街道を実際の上から眺めて見ると、その内には、平安時代のものらしいものもあり、また天災によって、止むなく迂回となったと思われる処もある。つまり鎌倉街道は満身創痍継ぎはぎだらけのものと言えよう。

  それでは実際に残っていた遺道と言うものは、どの位の規模のものであったか、と見ると、矢作川の西方元高原や、川の東岸山綱、本宿の山中に残っていた遺道、せいぜい二メートル幅前後のもので、各地とも広狭の際はあまりない。これに就いては鎌倉街道並木等と記されたものもあるが、それは後の連想らしく、この調査中には聞いたことはない。

 
東関紀行に「本野ヶ原は笹原の中に、数多(あまた)踏み分けたる道ありて」とあって、北条泰時が柳の木の道しるべを植えた程である。

  また阿仏尼の十六夜日記には「八橋を朝立ちて山もと遠き原野を分け行く」とあるので、並木のある様な街道ではなかったようである。
武田勇:三河古道と鎌倉街道、p.109,(私家版)(昭和51年)

  以上引用終わり

 

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