更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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鎌倉街道の実像

鎌倉街道の実像
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  古代に建設された駅路は平安時代中期までに相次いで廃絶したようである。しかし国土の拠点を結ぶ街道の必要性がなくなった訳ではなく、必要に応じて合理的な道筋が連結され街道となっていったものと思われる。これが鎌倉時代になり交通量が増えると、幕府の方針として、宿泊設備を含め街道が整備されるに至った。しかし、それに関する具体的文献は少ない。鎌倉街道の性格について郷土史家、武田勇氏は以下のように語っており、かなり正鵠を得ているので、ここに抜粋引用する。(猶、氏の調査は昭和30年代から40年代にかけて行われた。)

  以下引用


鎌倉街道の概要



  保元平治の乱の後、源頼朝は、漸く文治元年(1185)兵馬の権を握って、国衙所管の公田、権門、社寺の荘園から、平等に反別五升の兵粮米を徴収することが出来た。
ところが地頭の濫妨瀕々として、各地に生じた為、翌文治二年十月には早くも朝廷から近畿地方の皇室、並に権門、社寺の荘園には守護地頭の撤廃を命じられた。
  こうして、さしもの頼朝政権の寿命は短かく、その三十年後には早くも、北条氏に取って替られたものであるので、幕府には街道全線新設の大事業を行う暇は、到底なかったようである。

   けれどもこの鎌倉幕府に政権移動という、歴史的変化は忽ち海道に大きな影響を与えた。それ迄日本の主要道路は、京都ー九州太宰府間が第一であった。それがこの鎌倉幕府創立によって京都鎌倉間は、山陽道との位置が転倒し、全国交通量最大な主要道路となったものと言われている。

   これ迄平安時代の東海道の終点は常陸の国であった。それが今度はその終点が鎌倉となったので、これがこ鎌倉街道の名の起りとなったと言われよう。
   そこでそれ迄の、平安時代の東海道の長い間の太平に馴れ、駅家の制が亡んでしまって海道は終に荒るに任せ、全く放置されていた。

   ところが遽(にわ)かに鎌倉街道の往来は頻繁となる。茲に幕府は古代の伝馬の制を痛感し、昔時制度類似の伝馬制度を復活し、古駅に替る新宿を設置し、盛んに宿場の新設を行ったのが、鎌倉街道最大な特色であろう。

   当時幕府のの規定によると、急を要する飛脚は、鎌倉京都間が七日で、至急の場合は五日とされ、幕府に建てられた路次過書奉行は、始め臨時のものであったが、後これは常設のものとなったとされ、三河国矢作東宿の地には今も伝馬の地名も残っている。「備考 位置は岡崎市明大寺町で、徳川時代のものとは異なる」


  

参考 京都鎌倉間の宿名


京ー3里ー大津ー3里ー勢多ー50丁ー野路ー2里ー守山ー2里ー鏡ー2里ー武佐-1里ー蒲生野ー2里ー愛智川ー1里ー四十九院ー2里ー小野ー50丁ー馬場(ばんば)ー50丁ー佐目ガ井ー50丁ー柏原ー居増ー1里ー山中ー50丁ー垂井ー2里ー赤坂ー3里ー墨俣ー2里ー黒田ー3里ー折戸ー2里ー萱津-3里ー熱多ー50丁ー鳴海ー50丁ー沓懸ー50丁ー八橋ー2里ー矢波木-2里ー作岡ー50丁ー山中ー50丁ー赤坂ー2里ー渡津ー1里-今橋ー5里ー橋本ー5里ー疋馬(ひくま)ー2里ー池田ー50丁ー国府ー2里ー袋井ー2里ー懸河ー3里ー西坂ー50丁ー菊川ー1里ー鎌塚ー50丁ー島田-50丁ー前島ー1里ー藤枝ー2里ー岡部ー50丁ー満利子ー1里ー手越ー1里ー国府ー50丁ー瀬無川ー2里ー高橋ー1里ー興津(こうつ)ー2里ー湯井ー1里ー蒲原ー50丁ー車返ー50丁ー三島ー5里ー5里ー葦河ー湯本ー50丁ー小田原ー1里ー酒匂ー1里ー郡水ー2里ー志保美ー平塚ー懐島ー3里ー鎌倉         [資料 石田氏提供]


 

  右宿名数京都を省いて63宿、里数は61里ではないのに注意される。
なおこの宿名中には海道記、軍記に見える、豊川宿も、矢作西宿もその記載を見ない。これは通路の変更によるものらしく、宿名は街道定着のものであろう。

   するとこの宿名表はことによると、室町時代の頃か、それとも、徳川時代になってから記録されたものであるかもしれない。

   と言われることは、1里が36丁になった年代がここに分かっていないが、鎌倉時代の紀行文の上から見ると、当時は未だ6丁 1里であったようである。


鎌倉街道の実地調査


鎌倉街道は今なお伝承として、なぜ残ったものか。どういう訳であろう。所々に残る徳川時代の東海道の松並木は、あまりにも美しい風致をなしている。ところが、その前時代の鎌倉街道はまことにみすぼらしい。

  けれども、その遺道は八百年近くの前のもので、昔を懐かしむ心は何時の時代も同じである。故にこれが、次々に口称され、その遺称が残されたものではないか。
  鎌倉街道実地調査には十余年の歳月をかけ矢作川の東西、八里間の各沿線の字名と、各筆記入の詳細図をも作成したが、その街道の道形は不思議に接続するようである。

  ところがそれに使用した実測原図は明治年代のものであるので、調査当時には、己にその道形が消えているものもあった。

  その遺称道と云うものは今は極めて少なくまた調査の最初、在った遺道ものち、次ぎ次ぎに消えて行く現状である。またその遺道が、たとい残っているとしてもそれは、利用度の少ない山道であったり、また僅かしか、利用されない草茫茫の農道である。

  それではその鎌倉街道であったことを実証するものが、有るかと言うと、それは別に際立ったものもなく、僅にそれに因んだ古い字名や、塚や墓位いのものである。八つ橋の根上がり松の塚は今の道端にあるが、赤坂の承久戦の際の墓等は現在民家の中の裏にあるので容易に探し出せない。

  そこで八百年の後に残っ遺称道も何時迄も続くものではなく、現代の激しい開発に於ては一たまりもない。それ迄にも富士山の噴火もあれば、浜名湖の決壊もあり、洪水による木曽川河道の変改もある。街道というのもはかく天災から常に逃れられないという宿命も持っている。

  鎌倉街道は全線新設のものではないらしいと言ったのは、この事で、街道を実際の上から眺めて見ると、その内には、平安時代のものらしいものもあり、また天災によって、止むなく迂回となったと思われる処もある。つまり鎌倉街道は満身創痍継ぎはぎだらけのものと言えよう。

  それでは実際に残っていた遺道と言うものは、どの位の規模のものであったか、と見ると、矢作川の西方元高原や、川の東岸山綱、本宿の山中に残っていた遺道、せいぜい二メートル幅前後のもので、各地とも広狭の際はあまりない。これに就いては鎌倉街道並木等と記されたものもあるが、それは後の連想らしく、この調査中には聞いたことはない。

 
東関紀行に「本野ヶ原は笹原の中に、数多(あまた)踏み分けたる道ありて」とあって、北条泰時が柳の木の道しるべを植えた程である。

  また阿仏尼の十六夜日記には「八橋を朝立ちて山もと遠き原野を分け行く」とあるので、並木のある様な街道ではなかったようである。
武田勇:三河古道と鎌倉街道、p.108,(私家版)(昭和51年)

  以上引用終わり

 

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