更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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菅原孝標は帰任後祈年穀奉幣使(きねんこくほうべいし)に任ぜられたか

  更級日記作者の父、菅原孝標は五位の下級貴族で特に目立つ存在ではありませんでした。しかし、当時書かれた貴族の日記に、ちらちらと姿を現し動向が垣間見られます。源経頼の日記(左経記)には帰京の翌年の祈年穀奉幣使に関する記事があります。奉幣使に任ぜられても、費用は全額自己負担で経済的に得られるものはありませんが、菅原氏を代表して偉大な父祖、菅原道真公をまつる北野天満宮に奉幣することは、晴れがましい名誉でありました。



祈年穀とは



その年の穀物の実りを祈り、天皇と国家の安寧と平安を神に祈るものです。奉幣する神社は畿内の22社の有力神社でした。奉幣の時期は不定期ですが2月と7月頃行われました。祈年穀奉幣については、人選も含め奉幣定(ほうべいのさだめ)という会議で決められます。当初21のちに22社に派遣される奉幣使は神社の格によって氏族、位階が異なります。祭日には八省院の女官が幣帛を包み上卿以下、参列のもと奉幣使に順次宣命が授けられて発向しました。



伊勢…諸王+中臣、忌部

賀茂、松尾、平野…参議+五位

石清水、伏見稲荷…四位

丹生、貴布禰…神祇官の五位

他の社…五位

石清水…源氏の四位

春日、吉田…藤原氏の五位

梅宮…橘氏の五位

北野…菅原氏の五位





この奉幣の幣料は奉幣使が負担することになっていました。名誉な役目ではありますが後世(平安後期以後?)には一人で数社を兼ねたり、疾病・事故と称して辞退することがあり室町時代に廃絶しました。(以上吉川弘文館、国史大辞典より)



菅原孝標は治安元年(1021年)の奉幣使になれたか?



  これについて語る記事として『左経記』があり、短い記事なので引用します。



(八月)十日癸丑 晴、及晩景有召参内、被定廿一社奉幣使、為祈年穀、上権大納言、余執筆、十六日可立被定了、令左頭中将奏、給仰之、北野使上総前司孝標朝臣、新司下向之後、未満定限。

(読み下し)

八月十日、晴。晩景に及び、召し有りて参内す。祈年穀の為の廿一社の奉幣使を定めらる。権大納言が(名を)上げ、余、筆を執る。十六日立つべく定められ了んぬ。左頭中将をして奏せしめ、これを仰せ給ふ。北野使上総前司孝標朝臣、新司下向の後、未だ定限に満たず。



菅原孝標は前年十二月二日に帰京しています。北野使孝標朝臣とありますから北野天満宮の奉幣使に任ぜられたことは間違いありません。しかし、最後の一文の意味が分かりません。新司とは後任の上総介のことでしょうか? 後任の上総介は昨年夏までには赴任しています。孝標の「得替」は帰京後早々、翌年一月に完了していますから、「定限」とはそのことではありません。しかし、たとえ条件が不足していたとしても、北野使に任ぜられたことは間違いないでしょう。

経頼は孝標が奉幣使として適当でないと考えていたようですが、人選の会議(奉幣定)では結局任命されました。孝標の家は息子の定義の世代に氏の長者となりますが、この時点では受領を終えたばかりで、格は高くありません。それがどうして、奉幣使になれたかといえば、会議メンバーに十分な付け届けをしたのでしょう。 孝標は4年の上総在任中に相当な蓄財ができたので、そのくらいは何ということはなかったのです。

※『左経記』参議左大弁源経頼の日記

増補史料大成6「左経記」、p116、臨川書店

 

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