平安時代の地方寺院、三河国、薬王寺(別郷廃寺)について
薬王寺
市杵島姫(いちきじまひめ)神社の北に隣接する別郷廃寺は天平15年頃、行基菩薩により建立された薬王寺ではないかと考えられている(所在:愛知県安城市別郷町油石53)。
但し現在のところ、薬王寺である決定的な証拠はない。この寺の位置は平安・鎌倉街道沿道と考えられるため重要である。薬王寺については平安時代中期、天元3年(980年)、この地を訪れた慶滋保胤(よししげやすたね)の紀行文が『本朝文粋』に残されている。この時代には当初の立派な伽藍ではないものの、引き続き存在し街道の中継点となっていたことがわかる。この寺は建武の動乱で焼失廃絶するまでは存続したので更級日記の家族が通ったときには当然休憩などしたと考えられる。
別郷廃寺遺跡からは蓮華文軒丸瓦をはじめとする古代瓦、甕、鴟尾の一部が発掘され、さらに隣接する市杵島姫神社には寺の礎石とみられるものが保存されているので、かなり格式の高い寺院であったと考えられ、碧海郡の一道場と書かれていることから保胤が訪れた寺と考えてもいいのではないだろうか。
尚、郷土史家、武田勇氏は慶滋保胤が訪れた時に薬王寺の規模は当初の壮麗な伽藍規模ではすでになく、訪問記が伝えるように草堂、茅屋など簡素な形で運営されていたと指摘している。平安時代中期には地方には既に大きな寺院を維持できる富豪層が没落していたことを示すものではなかろうか。ともあれ、保胤が訪れてから約40年後、更級日記の菅原家一行が、ここを通ったことは疑いなかろう。
※武田勇、三河古道と鎌倉街道、p.48、(私家版)
慶滋保胤訪問記
晩秋参州薬王寺を過ぎるに感ずるところ有り
参河州碧海郡、一道場有り。薬王寺という。行基菩薩、昔建立するところ也。聖跡旧(ふる)しと雖も風物は惟(ただ)新し。前に碧瑠璃の水あり、後ろに黄纐纈※の林有り。草堂有り。茅屋有り。経蔵有り。鐘楼有り。茶園有り。薬園有り。僧有りて中に在る。白眉颯たり。余は是羈旅の卒、牛馬の走。初めて寺を訪ねて僧に逢う。庭前を徘徊し灯下談話す。耳目感ずる所を、いささか斯の文を記す。
原文を以下に示す。『本朝文粋』p.295、新日本古典文学大系27、岩波書店
※纐纈(こうけつ):奈良時代の鹿の子絞りという染文様
市指定史跡 別郷廃寺跡案内板
舌状にのびた洪積台地の端、別郷町油石一帯に位置しています。伽藍配置及び境内の境内の規模は不明ですが、現在の別郷町の集落のなかに約100メ-トル四方にわたっていると思われます。市杵嶋姫神社に礎石一個が運ばれていますが、風化の激しい花崗岩で平坦な面に、径63cmの突出した柱座が残っています。
出土遺物としてはおびただしい量の布目瓦と北野廃寺(岡崎市)と同形式の六葉素弁文軒丸瓦と八葉素弁文軒丸瓦(ともに白鳳様式)と八葉複弁文軒丸瓦(奈良時代)、それに経石、須恵器、山茶碗などの破片があります。
「本朝文粋」(平安時代)の漢詩?によまれた「三州薬王寺」はこの寺とみる説もあります。
昭和43年4月1日指定 安城市教育委員会