古代日本のカキ(柿)と駅路の街路樹
周知のように、カキという果樹は縄文遺跡から種子が発見されるなど古くから日本列島に自生していたと考えられている。すでに藤原京では多量のカキの種子が発掘され、栽培種が食品として供給されていたことが明らかになった。カキについて平安時代の百科事典、倭名類聚抄に二種の記載がある。(倭名類聚抄、本文編p.745(臨川書店))
柿(和名:かき)…赤実
鹿心(和名やまかき)…小型で長い
”かき”が栽培種で食用になる品種であり、”やまかき”は山野に自生する原種と思われる。当時の柿の実はすべて渋柿で、甘がきは鎌倉時代に出現した”禅師丸”に始まる。従って平安時代に実用果樹として栽培されていたカキは熟柿にして食べるか干し柿にして食べられていた。柿は甘味が少ない時代に在っては貴重な果樹であった。”やまかき”は現代でも山地に自生し、実は長さ2、3cmと小さい。この実は完熟しても渋みが抜けず食用にならない。画像に示すロウア(老鴉)柿は観賞用の園芸品種であるが原種に近い特徴を残している。
駅路の街路樹
さて、奈良時代においては駅路に果樹並木を植栽することが奨励されていた。街路樹として植栽された樹種が何かは明らかでないが、柿が多く植えられたことは想像に難くない。更級日記中にある二村宿泊時の記事に『二むらの山の中にとまりたる夜、大きなる柿の木のしたに庵を作りたれば、夜一夜、庵の上に柿の落ちかゝりたるを、人々拾ひなどす』とあるが、これも駅路に関係があるのではないだろうか。
更級日記、二村で登場する柿は栽培種の食用柿
更級日記に登場するカキは武田勇氏の指摘のように(『三河古道と鎌倉街道』p.101)、栽培種の柿である。食用であればこそ人々は拾ったのである。食用柿が植えられたその場所は、逆に駅家跡地であることを強く示唆する。延喜式では果樹植栽の場所を『駅路邊』としており駅路の並木だけでなく関連施設、例えば駅家の周囲を画する築地代わりに植えられたこともあろう。柿は樹齢百年も珍しくなく、駅制廃絶後も実をつけていたことは容易に想像できる。
<参考文献>
奈良時代天平宝字3年(759年)6月22日、東大寺の僧侶、普照により駅路に並木として果樹を植栽することが献言された。並木を植えることにより夏には日陰を作り旅人の休憩場所となり、果樹の実る季節には飢えを癒してくれるものとなる。
①太政官符
まさに畿内七道諸国は駅路の両邊に遍く菓樹を植えるべきこと
右東大寺普照法師の奏状いわく、道路は百姓の来去絶えず。樹がその傍らに在らば、疲乏を息むに足り、夏は即ち陰に就き熱を避け、飢えれば即ち子を摘み、これを食ふ。伏して城外の道路の両邊に菓子樹木の栽種を願ふといえり。
天平寶字三年六月廿二日
(国史大系、類聚三代格 前編 p.298、吉川弘文館)
②平安時代の延喜式、雑式の規定
およそ、諸国の駅路邊は菓樹を植えるべき事。往還の人休息を得さしめ、若し水無き處は便を量りて井を掘れ。
(延喜式巻50雑式、国史大系『延喜式 後編』p.995、吉川弘文館)
③万葉集に見る橘の街路樹
これは駅路ではなく、藤原京あるいは平城京の街区の街路樹と思われる。橘の並木の陰を踏みながら、道の分かれ道(交差点)に来て、彼女のところに行こうか行くまいかと思い悩んでいる若者の迷いを詠んだものか。
橘の影踏む道の八衢に物をぞ思ふ妹に逢はずして (125) 三方沙弥
(日本古典文学全集 万葉集(1)p.130、小学館)