更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
文字サイズ

海道記に見える三河国の鎌倉街道、宮橋とはどこか

  平安時代の更級日記には何の記述もないが、貞応二年(1223年)、鎌倉下向の旅日記である海道記では八橋を過ぎて宮橋を通っている。この場所の現在地はどこであろうか。宮橋という地名について武田勇氏は現在の安城市里町が、かつて「宮橋の里」と呼ばれていたという伝承から、猿渡川、七曲りにかかる橋の事ではないかと見ている(『三河古道と鎌倉街道』p.118)。実際には海道記作者がこの宮橋を通過したときには橋板が腐り橋柱のみが残っていた。


宮とは当時、原野の中にポツンと鎮座していた不乗(のらず)の森神社と思われる。戦後、七曲りの南部には石橋団地が開発され地形が変化している。武田氏は団地開発以前の地形図を提示しているので、現代地図と照合し、鎌倉街道の通過経路を推定した。

注目すべき点は「大道畑」「大道山」という字名が現代にも残っていることである。駅路、鎌倉街道のあったところには「大道」という地名が残ることが知られている。

下に武田氏の著書にある土地開発以前の地形図を示す。測図時期は不明である。


 上記地図に該当する現代地図を下に示す。赤点線で推定鎌倉街道を示した。青線は字の境界である。鎌倉街道が”字”境界を通っていたことがわかる。


 

カテゴリ一覧

ページトップへ

この記事のレビュー ☆☆☆☆☆ (0)

レビューはありません。

レビューを投稿