更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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東関紀行に見る東海道、関東下向の旅

東関紀行に見る東海道、関東下向の旅
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  東関紀行は鎌倉時代半ば(1242年)に現役を退き半ば隠遁生活を送っていた作者が所用で鎌倉に下った際の旅行記である。現代の暦で秋のはじめ9月16日に出発した。作者ははっきりしないが、和歌、漢学に通じた相当な知識人であったことは疑いない。本文のみを旅行に関係ない末尾の鎌倉案内を除き以下に収録した。平安・鎌倉時代には京都から後世の中山道、美濃路を経由して尾張に出て、東海道をたどり関東に下向するコースが一般的であった。読者の便宜のため、日付を挿入したが、西暦は現在の季節感に近づけるため当時のユリウス暦ではなく現代のグレゴリオ暦で表記した。


中世日記紀行集p.128 新日本古典文学大系(岩波書店)

『東関紀行』の校注:大曾根章介、久保田淳

以下引用


東関紀行本文

  齢は百とせの半ばに近づきて、鬢の霜やうやくに冷(すず)しといへども、なす事なくして徒(いたづら)に明し暮すのみにあらず、さしていづこに住みはつべしとも思ひ定めぬ有様なれば、かの白楽天の「身は浮雲に似たり、首は霜に似たり」と書き給へる、あはれに思ひ合せらる。もとより金張七葉のさかへを好まず、ただ陶潜五柳の栖を望む。しかはあれど太山(みやま)の奥の柴の庵までも、しばしば思ひやすらふほどなれば、なまじゐに都のほとりに住ゐつゝ、人なみなみに世にふる道になんつらなれり。是即身は朝市に有て心は隠遁にある謂(いはれ)あり。

  かゝる程に、思はぬ外に仁治三とせの秋八月十日余りの比(ころ)、都を出て東(あづま)へをもむく事有。まだ知(しら)ぬ道の空、山重りて、はるばる遠き旅なれば、雲を凌ぎ霧を分つゝ、しばしば前途のきはまりなきにすゝむ。つゐに十余日数をへて、鎌倉に下り着し間、或は山間野亭の夜の泊、或は海辺水流の数重なるみぎりいたるごとに、目に立所々、心とまるふしぶしを書置きて、忘れず忍ぶ人あらばをのづから後の形見にもなれとて也。

 

仁治三年八月十三日(グレゴリオ暦1242年9月16日)


  東山のほとりなる栖を出で、相坂の関うち過ぎるほどに、駒引きわたす望月の比(ころ)も漸(ようやく)近き空なれば、秋霧立渡りて、ふかき夜の月影ほのかなり。夕つけ鳥幽(かすか)にをとづれて、遊子猶残月に行きけん函谷の有様思合せらる。むかし蝉丸といひける世捨人、此関のほとりに藁屋の床をむすびて、つねは琵琶を引て心をすまし、和歌を詠じて思を述けり。嵐の風はげしきをしゐつゝぞすぐしける。有人のいはく、蝉丸は延喜第四の宮にておはしましけるゆへに、この関のあたりを四宮河原と名付けたりといへり。

  いにしへのわらやの床のあたりまで心をとむる逢坂の関

   東三条院、石山にまうでて還御有けるに、関の清水を過させたまふとてよませたまひける御歌に、「あまた度ゆきあふ坂の関水にけふをかぎりのかげぞ悲しき」と聞こゆるこそ、いかなりける御心の物にかと、あはれに心ぼそけれ。

 関山越え過ぎぬれば、打出の浜、粟津の原なんど聞けども、いまだ夜のうちなれば、さだかにも見わかれず。昔天智天皇の御代、大和国飛鳥の岡本の宮より、近江の志賀の郡にうつりありて、大津の宮をつくられけりと聞にも、此程はふるき皇居の跡ぞかしとおぼえて、哀なり。

  さざなみや大津の宮のあれしより名のみ残れる志賀の故郷(ふるさと)

  明ぼのの空になりて、瀬田の長橋打渡るほどに、湖遥かにあらはれて、彼満誓沙弥が比叡山にてこの海をのぞみつゝよめりけん歌思ひ出られて、漕行舟のあとの白波、まことにはかなくて心ぼそし。

  世の中を漕行舟によそへつゝながめしあとを又ぞながむる

このほどをも行すぎて、野路といふ所にいたりぬ。草の原露しげくして、旅衣いつしか袖のしずくと心ぼそし。

  東路の野路の朝露けふやさは たもとにかゝるはじめ成らむ

  篠原といふ所を見れば、東へはるかに長き堤あり。北には里人栖をしめ、南には池のおもて遠く見えわたる。むかへのみぎり、みどりふかき松のむらだち、波の色もひとつなり。南山のかげをひたさねば、青くして滉瀁(こうよう)たり。洲崎所々に入違て、芦かつみなど生渡れる中に、鴛鴨の打むれて、飛びちがふさま、足手をかけるやうなり。都を立旅人、此の宿にこそ泊まりけるが、今は打過るたぐひおおほくて、家居もまばらに成行など聞こそ、かはりゆく世の習、飛鳥の川の渕瀬にはかぎらざりけめとおぼゆ。

  ゆく人のとまらぬ里と成しよりあれのみまさる野路の篠原

  鏡の宿に至りぬれば、昔七(なな)の翁の寄合つゝ老をいとひて続ける歌の中に、

「鏡山いざたちよりて見てゆかむ年へぬる身は老やしぬると」といへるは、此事にやとおぼえて、宿もからまほしけれども、猶おくざまにとふべき所ありて、うち過ぎぬ。

  たちよらでけふは過なん鏡山しらぬおきなのかげは見ずとも

  行暮ぬれば、武佐寺といふ山寺のあたりに泊まりぬ。まばらなる床のあたり、秋風夜更るまゝに身にしみて、都をいつしか引かへたる心地す。枕に近き鐘の声、暁の空にをとづれて、彼遺愛寺の辺の草の庵の寝覚も、かくや有りけむと哀なるうちにも、行末遠き旅の空思ひつゞけられて、いといたう物がなし。

  都出て幾日もあらぬ今宵だに片舗(かたしき)わびぬ床の秋かぜ


仁治三年八月十四日(グレゴリオ暦1242年9月18日)


  この宿を出て、笠原の野原打通る程に、老蘇の森といふ杉村あり。下草深き朝露の、霜にかはらむ行末も、はかなくうつる月日なれば、とをからずおぼゆ。
かはらじな我もとゆひにをく霜も名にし老蘇の森の下くさ

  音に聞きし醒が井を見れば、蔭暗き木の下岩ねより流れ出る清水、あまり涼しきまですみわたりて、誠に身にしむばかりなり。余熱いまだつきざる程なれば、往来の旅人おほく立寄てすゞみあヘリ。斑婕妤(はんしょうよ)が団雪の扇、岸風に代へてしばらく忘れぬれば、末遠き道なれども、立ちさらむ事は物うくて、さらにいそがれず。西行が、「道の辺の清水ながるゝ柳陰しばしとてこそ立とまりつれ」とよめるも、かやうの所にや。

  道の辺の木かげの清水むすぶとてしばしすゞまぬ旅人ぞなき


仁治三年八月十五日(グレゴリオ暦1242年9月19日)

 

  柏原と云う所を立て、美濃国関山にもかかりぬ。谷川霧のそこにをとづれ、山風松の声に時雨わたりて、日影も見えぬ木の下道、越果ぬれば不破の関屋なり。板庇年へにけりと見ゆるにも、後京極摂政殿の、「荒にし後はたゞ秋の風」とよませ給へる歌、思出られて、この上は風情もまはりがたければ、いやしき言の葉を残さんも中々覚えて、爰(ここ)をばむなしく打過ぎぬ。

   杭瀬川といふ所に泊まりて、夜更る程に川ばたに立出てみれば、秋の最中(もなか)の晴の空、清き川瀬にうつろひて、照(てる)月なみも数見ゆ計すみわたり、二千里の外の古人の心思ひやられて、旅の思ひいとゞをさえがたくおぼゆれば、月のかげに筆を染つゝ「華洛を出て三日、株川に宿して一宵、しばしば幽吟を中秋三五夜の月にいたましめ、かつがつ遠情を前途(せんど)一千里の雲にをくる」など、ある家の障子に書きつくる次而(ついで)に、

  知らざりき秋の半の今宵しもかゝる旅寝の月を見むとは


仁治三年八月十六日(グレゴリオ暦9月19日)

 

萱津の東宿の前を過れば、そこらの人あつまりて、里もひゞく計(ばかり)にのゝしりあへり。今日は市の日になんあたりたるとぞいふなる。往来のたぐひ、手毎にむなしからぬ家づとも、彼(かの)「見てのみや人にかたらん」とよめる、華の形見にはやうかはりておぼゆ。
 
  花ならぬ色香も知らぬ市人のいたづらならでかへる家づと

  尾張国熱田の宮に至りぬ。神垣のあたり近ければ、やがてまいりて拝み奉るに、木立年ふりたる杜の木の間より、夕日影たえだえさし入て、あけの玉垣色をそへたるに、しめゆふに彼(かの)ゆふしで風にみだれたることがら、ものにふれて神さびたる中にも、ねぐらあらそふ鷺むらの数もしらず梢にきゐるさま、雪のつもれるように見えて、遠く白き物から、暮行まゝにしづまりゆく声も心すごく聞ゆ。有人のいはく、此宮は素戔嗚尊也。はじめ出雲国に国作り有けり。「八雲立」といへる大和言の葉も、是よりぞはじまれる。其後景行天皇御代に、この砌に跡をたれ給へりといへり。またいはく、この宮の本体は、草薙と号し奉る神剣也。景行の御子、日本武尊と申、夷(えびす)をたいらげて帰り給ふ時、尊は白鳥と成て去給ふ。剣は熱田にとまり給ふといへり。

 一条院の御時、大江匤衡と云博士有けり。長保の末にあたりて、当国の守にてくだりたりけるに、大般若を書てこの宮にて供養をとげたりける願文に、「わが願すでに満ちぬ。任限又満ちたり。ふるさとへ帰らんとする期(ご)、いまだいくばくならず」と書きたるこそ、あはれに心ぼそくきこゆれ。

  思出もなくてや人の帰らまし法(のり)の形見を手向をかずは


仁治三年八月十七日(グレゴリオ暦9月20日)

 

  此宮を立て浜路にをもむくほど、有明の月影更(ふ)けて、友なし千鳥時々をとづれわたり、旅の空のうれへ心に催して、哀れ方々ふかし。

  ふるさとは日をへて遠くなるみ潟いそぐ塩干の道ぞすくなき

  やがて夜の内に二村山にかゝりて、山中などを過ぐるほどに、東やうやうしらみて、海の面(おもて)はるかに顕れ渡れり。波も空も一にて、山路につゞきたるやうに見ゆ。

 玉匣(たまくしげ)二村山のほのぼのと明行(あけゆく)すゑは波路なりけり

  ゆきゆきて三河国八橋のわたりを見れば、在原の業平が杜若(かきつばた)の歌よみたりけるに、みな人かれいゐの上に涙おとしける所よと思出られて、そのあたりを見れども、かの草とおぼしき物はなくて、稲のみぞ多く見ゆる。

  華故におちし涙のかたみとや稲葉の露を残しをくらむ

  源の喜種がこの国の守にて下(くだり)ける時、とまりける女のもとにつかはしける歌に、「もろともに行かぬ三河の八橋を恋しとのみや思ひわたらむ」と読(よめ)りけるこそ、思ひ出でられて哀なれ。


仁治三年八月十八日(グレゴリオ暦9月21日)


  矢矧といふ所を立て、宮路山越え過ぐるほどに、赤坂と云宿有。爰に有りける女ゆへに、大江定基が家を出でけるもあはれ也。人の発心する道、其縁一にあらねども、あかぬ別れをおしみし迷ひの心をしもしるべにて、まことの道にをもむきけん、有難くおぼゆ。


  別れ路に茂りも果(はて)で葛の葉のいかでかあらぬかたにかへりし

  本野河原に打出でたれば、よもの望みもかすかにして、山なく岡なし。秦甸(しんてん)の一千余里を見渡したらん心地して、草土ともに蒼茫たり。月の夜の望(のぞみ)いかならんと床しくおぼゆ。茂れる笹原の中に、あまたふみ分けたる道ありて、行く末もまよひぬべきに、故武蔵の司、道のたよりの輩(ともがら)におほせて植へをかれたる柳も、いまだ陰とたのむまではなけれども、かつがつまづ道のしるべとなれるも哀也。もろこしの召公奭(せき)は周の武王の弟也、成王の三公として、燕と云国をつかさどりき。晋の西の方を治めし時、ひとつの甘棠(かんとう)のもとをしめて政おこなふ時、つかさ人より始めてもろもろの民に至るまで、そのもとをうしなはず、あまねく又人のうれへをことはり、おもき罪をもなだめけり。国の民こぞりて其徳政を忍ぶ故に、召公去りにし跡までも、彼(かの)木をうやまひてあへて伐らず、歌をなんつくけり。後三条天皇東宮にておはしけるに、学士實政任国にをもむく時、「州の民はたとひ甘棠の詠をなすとも、忘るるゝ事なかれ。おほくの年の風月のあそび」といふ御製を給はせたりけるも、此心にやありけん、いみじくかたじけなし。彼前の司も、此召公の跡を追ひて人をはぐゝみ物を憐れむあまり、道のほとりの行来のかげまでも、思(おもひ)よりて植へをかれたる柳なれば、是を見ん輩(ともがら)、みなかの召公を忍びけん国の民のごとくにおしみめでて、行末の蔭とたのまん事、その本意は定(さだめ)てたがわじとこそおぼゆれ。


 植へ置きし主(ぬし)なきあとの柳原なをその蔭をひとやたのまん


   豊川といふ宿の前を打過ぐるに、あるもののいふを聞ば、この道は昔よりよくる方なかりしほどに、近き比(ころ)より俄かに渡ふ津(わとうづ)の今道といふかたに旅人おほくかゝるあひだ、今はその宿は人の家居をさへほかにのみうつすなどぞいふなる。古きを捨て新敷(あたらしき)につくならひ、定れる事といひながら、いかなるゆへならんとおぼつかなし。昔より住つきたる里人の、今さらゐうかれんこそ、かの伏見の里ならねども、荒れまくおしくおぼゆれ。

 おぼつかないさ豊川のかはる瀬をいか成(なる)人のわたりそめけむ

  参川、遠江のさかひに、高師山と聞こゆるあり。山中に越えかゝるほど、谷川の流れ落ちて、岩瀬の波ことことしく聞ゆ。境川とぞいふなる。

  岩つたひ駒うちわたす谷川の音もたかしの山に来にけり

  橋本といふ所に行つぬれば、聞渡りしかひ有て、景気いと心すごし。南には海潮あり、漁舟波にうかぶ。北には湖水あり。人家岸につらなれり。其間に洲崎遠く指出て、松きびしく生ひつゞき、嵐しきりにむせぶ。松のひゞき、波の音、いづれも聞きわきがたし。行人心をいたましめ、とまるたぐひ、夢を覚さずといふ事なし。海に渡せる橋を浜名となづく。古き名所也。朝たつ雲の名残、いづくよりも心ぼそし。

 行とまる旅寝はいつもかはらねどわきて浜名の橋ぞ過ぎうき

扨(さて)も此宿に一夜泊まりたりしやどあり。軒古(ふり)たる萱屋の所々まばらなる隙(ひま)より、月の影曇りなく指入たる折りしも、君どもあまた見えし中に、すこしをとなびたるけはひにて、「夜もすがら床の下に晴天を見る」と忍びやかに打詠(うちながめ)たりしこそ、心にくくおぼえしか。

  言の葉の深き情(なさけ)は軒端もる月のかつらの色にみえにき


仁治三年八月十九日(グレゴリオ暦9月22日)


  なごりおほくおぼえながら、この宿をも打出て行過るほどに、舞沢の原といふ所に来にけり。北南は眇々(びょうびょう)と遥かにして、西は海の渚近し。錦華繍草のたぐひはいとも見えず。白きいさごのみありて雪の積るに似たり。其間に松たえだえ生わたりて、汐風梢に音づるゝ。又あやしの草の庵の所々に見ゆる、漁人釣客などの栖にやあらむ、末とをき野原なれば、つくづくと詠行(ながめゆく)ほどに、打つれたる旅人のかたるをきけば、いつの比よりとは知らず、此原に木像の観音おはします。御堂など朽ち荒れにけるにや、かりそめなる草の庵のうちに雨露たまらず、年月を送るほどに、一とせ望む事ありて、鎌倉へ下る筑紫人ありけり。此観音の前に参りたりけるが、もし本意を遂げて故郷へむかはば、御堂をつくるべきよし、心の中に申置たりけり。鎌倉にて望むことかなひけるによりて、御堂を作りけるより、人おほく参るなんとぞいふなる。聞あへずその御堂へ参りたれば、不断香のにほひ、風にさそはれてうちかほり、閼伽の花も露鮮やか也。願書とおぼしきもの、斗帳の紐に結びつけたれば、「弘誓(ぐせい)のふかき事海のごとし」といへるもたのもしくおぼえて、

 たのもしな入江にたつるみをつくし深き験(しるし)のあると聞(きく)にも

  天流と名付たる渡りあり。川深く流れけはしきと見ゆる、秋の水みなぎり来りて、舟の去ることすみやかなれば、往来の旅人たやすくむかへの岸に着難し。この川増(まさ)れるときは、舟などもをのづからくつ帰て、底のみくづとなるたぐひ多かりと聞くこそ、彼(かの)巫峡(ぶきょう)の水の流れ思ひよせられて、いと危うき心ちすれ。しかはあれども、人の心にくらぶれば、しづかなる流れぞかしと思ふにも、たとふべきかたなきは、世にふる道のけはしき習ひなり。

  この川のはやき流れも世の中の人の心のたぐひとは見ず

  遠江の国府今の浦に着ぬ。爰に宿かりて、一日二日とまりたるほどに、蜒(あま)の小舟棹さして浦のありさま見めぐれば、塩海水うみの間より、洲崎とをく隔りて、南には極浦の波袖をうるほし、北には長松の風心いたましむ。名残おほかりし橋本の宿にぞ似たる。昨日の目うつりなからずは、是も心とまらずしもはあらざらましなどおぼえて、

  浪の音も松のあらしもいま浦にきのふの里の名残をぞ聞


仁治三年八月廿一日(グレゴリオ暦9月24日)

 

  ことのまゝと聞ゆる社おはします。その御前を過ぐとて、いさゝか思ひつゞけられし。

 ゆふだすきかけてぞたのむ今思ふことのまゝなる神のしるしを

   小夜の中山は、古今集の歌に、「よこをりふせる」とよまれたれば、名高き名所とは聞置たれども、見るにいよいよ心ぼそし。北は太山(みやま)にて松杉風はげしく、南は野山にて秋の華露しげく、谷より峰にうつる白雲に分入(わけいる)心地して、鹿の音涙を催し、虫のうらみ哀れふかし。

  ふみまよふ峰のかけはしとだえして雲にあととふ小夜の中山

  この山をも越えつゝ猶過行ほどに、菊川といふ所あり。去(い)にし承久三年の秋の比、中御門中納言と聞こえし人、罪有て東へ下されけるに、此宿に泊りたりけるが、「昔は南陽県の菊水、下流を汲みて齢を延ぶ、今は東海道の菊川、西岸に宿して命を失ふ」と、ある家の障子に書かれたりけると聞置たれば、哀れにて其家を尋ぬるに、火のために焼けて、彼言の葉も残らぬよし申ものあり。今は限りとて残し置きけむ形見さへ、あとなく成にけるこそ、はかなき世のならひ、いと哀れに悲しけれ。

  書きつくる形見も今はなかけり跡は千年とたれかいひけむ

  菊川を渡りて、いくほどなく一村の里あり。こまばとぞ言ふなる。この里の東のはてに、少し打登るやうなる奥より、大井川を見渡したれば、はるばると広き河原の中に、一筋ならず流れ分れたる川瀬ども、とかく入違ひたるやうにて、すながしという物したるに似たり。中々渡りて見むよりも、よそめ面白くおぼゆれば、彼紅葉みだれて流れけん竜田川ならねども、しばしやすらはる。

  日数ふる旅のあはれは大井川わたらぬ水もふかきいろかな


仁治三年八月廿二日(グレゴリオ暦9月25日)

 

  前嶋の宿を立て、岡部の今宿うち過ぐるほどに、片山の松の蔭に立寄て、かれいゐなど取出たるに、風冷(すさま)じく梢にひゞきわたりて、夏のまゝなるうすき袂もさむくおぼゆ。

  是ぞこのたのむ木のもと岡べなる松のあらしよ心して吹け

  宇津の山を越ゆれば、蔦かづらはしげりて、昔の跡たえず。業平が修行者にことづてしけん程、いづくなるらむと見行く程に、道のほとりに札を立てたるを見れば、無縁の世捨人あるよしを書けり。道より近きあたりなれば、少したち入て見るに、わづかなる草の庵のうちに独(ひとり)の僧有。画像の阿弥陀仏をかけたてまつりて、浄土の法門などを書けり。その外に見ゆる物なし。発心の初め尋ねければ、「我身はもと此国のもの也。さして思ひ人たる道心も侍らぬうへ、其身堪(たへ)たるかたなければ、理を観ずるに心くらく、仏を念ずる性ものうし。難行易行のニ道ともかけたりといへども、山中に眠れるは、里にありて勤めたるにまされるよし、ある人のをしえにつきて、この山に庵を結びつゝあまたの年月を送る」よし答ふ。猶三春の蕨を採る、許由が穎水の月にすみし、をのずから一瓢の器ものをかけたりといへり。此庵のあたりには、ことさら煙立てたるよすがも見えず、芝折りくぶるなぐさめまでも思ひたえたるさま也。身を孤山の嵐の底にやどし、心を浄域の雲の外にすませる、いはねどしるく見えて、中々哀に心ぼそし。

  世をいとふ心のおくやにごらましかゝる山辺の住居ならでは

  この庵のあたり幾程遠からず、峠といふ所に至りて、大なる卒塔婆の年経にかると見ゆるに、歌どもあまた書付たる中に、「東路はこゝをせにせん宇津の山哀れもふかし蔦の細道」と読める、心とまりておぼゆれば、其かたはらに書付く。

 われは又これを背にせん宇津の山わきて色有(ある)つたのした露

  猶うち過ぐるほどに、ある木陰に石を高くつみあげて、目に立(たつ)さまなる塚あり。人に尋ぬれば、梶原が墓となむこたふ。道のかたはらの土と成けるとみゆるにも、顕基中納言のくちづけ給へりけん、年々に春の草生ひたるといへる詩、思ひ出られて、是又古き塚となりなば、名だにもよも残らじとあはれ也。羊太傳が跡にはあらねども、心ある旅人は、爰にも涙をやをとすらん。かの梶原は、将軍二代の恩に誇り、武勇三略の名を得たり、かたはらにひとなくぞ見えける。いかなる事にか有けん、かたへの憤りふかくして、忽に身を亡ぼすべきに成にければ、ひとまども延びんとや思ひけん、都の方へはせのぼりける程に、駿河国き川といふ所にてうたれにけりと聞きしが、さは爰にてありけりと哀に思ひ合せらる。讃岐の法皇配所へ趣かせ給ひて後、志度といふと所にてかくれさせおはしましにける跡を、西行修行のつゐでに見まいらせて、「よしや君昔の玉の床にてもかゝらむ後は何にかはせん」と読りけるなど承るに、ましてしもざまのものの事は申に及ばねども、さしあたりて見るに、いとあはれにおぼゆ。

  哀にも空にうかれし玉ぼこの道のべにしも名をとゞめける

  清見が関も過うくてしばし休らへば、沖の石、むらむら塩干に顕て波にむせぶ。礒の塩屋、所々に風にさそはれて煙なびきにけり。東路の思出とも成ぬべき渡り也。昔朱雀天皇の御時、将門といふ者、東にて謀反をこしける。是をたいらげんために、宇治民部卿忠文をつかはしける、この関に至りてとゞまりけるが、清原滋藤といふもの、民部卿ともなひて、軍監(ぐんけん)といふ司にて行けるが、漁舟の火の影は寒くして波を焼く、駅路の鈴の声はよる山を過ぐ」といふ唐の歌をながめければ、涙を民部卿流しけりと聞にもあはれなり。

  清見潟関とはしらで行く人も心ばかりはとゞめをくらむ

  此関遠からぬほどに、興津といふ浦有。海に向ひたる家にやどりて泊まりたれば、磯部によする波の音も、身の上にかゝるやうにおぼえて、夜もすがらい寝られず。

  清見潟礒べに近き旅枕かけぬ波にも袖は濡れけり

  今宵は更にまどろむ間だになかりつる草の枕のまろぶしなれば、寝覚めもなき暁の空に出ぬ。岫が埼と言ふなる荒磯の、岩のはざまを行過るほどに、沖津風激しきに、うちよする波も隙(ひま)なければ、急ぐ塩干の伝ひ道、かひなき心地して干すまもなき袖の雫までは、かけても思はざりし旅の空ぞかしなど打詠(ながめ)られつゝ、いと心ぼそし。

   沖津風けさ荒礒の岩づたひ波わけごろもぬれぬれぞ行


仁治三年八月廿三日(グレゴリオ暦9月26日)

 

  蒲原とふ宿の前を通るほどに、をくれたるもの待つけんとて、ある家にたち人たる、障子に物を書たるを見れば、「旅衣すそ野の庵のさむしろ(狭莚)に積るもしるき富士の白雪」といふ歌也。心ありける旅人のしわざにや有らむ。昔香爐峰の麓に庵しむる陰士あり、冬の朝簾をあげて峰の雪を望みけり。いまは富士の山のあたりに宿かる行客あり、さゆる夜衣を片敷て山の雪を思へる、彼是もとも心すみておぼゆ。

  さゆる夜はたれ爰にしも臥わびて高根の雪を思ひやりけむ
  田籠の浦に打出て、富士の高嶺を見れば、時分ぬ雪なれども、なべていまだ白妙にはあらず、青くして天によれる姿、絵の山よりもこよなふ見ゆる。貞観十七年の冬の比、白衣の美女有て、二人山のいたゞきにならび舞と、都良香が富士の山記に書たる、いかなる故かとおぼつかなし。

  富士のねの風にたゞよふ白雲を天津乙女の袖かとぞ見る

  浮嶋が原はいづくよりもすぐれて見ゆ。北は富士の麓にて、西東へはるばるとながき沼有。布を引けるがごとし。山のみどり影をひたして、空も水もひとつ也。芦刈小舟所々に棹さして、むれたる鳥はおほく去来る。南は海のおもて遠く見わたされて、雲の波煙のなみいと深きながめ也。すべて孤嶋の眼に遮(さえぎる)なし。はつかに遠帆の空につらなれるを望む。こなたかなたの眺望、いづれもとりどりに心ぼそし。原には塩屋の煙たえだえ立渡りて、浦風松の梢にむせぶ。此原昔は海の上にうかびて、蓬莱の三つ嶋のごとくにありけるによりて、浮嶋が原となん名付たりと聞くにも、をのづから神仙の栖にもやあるらむ、いとゞおくゆかしく見ゆ。

  影ひたす沼の入江に富士のねのけぶりも雲も浮嶋が原

  やがて此原につゞきて千本の松原といふあり。海のなぎ遠からず、松はるかに生わたりて、緑の陰気派もなし。沖には舟ども行違ひて、木の葉の浮けるやうに見ゆ。彼(かの)「千株の松のもとの双峰寺、一葉の舟の中の万里(ばんりの)身」とつくれるにも、彼も是もはづれず、眺望いづくにもすぐれたり。

  見渡せば千(ち)本の松の末とをみみどりにつゞく波の上かな

  車返しと云里あり。ある家に宿かりたれば、網釣など営む礒ものの栖にや、夜のやどり香ことにして、床のさむしろ(狭莚)もかけるばかり也。彼縛戎人の夜半の旅寝も、かくやとおぼゆ。

  是ぞこの釣する蜒(あま)の苫びさしいとふありがや袖にのこらむ

  伊豆の国府に至りぬれば、三嶋の社のみしめうちおがみ奉るに、松の嵐木ぐらくをとづれて、庭のけしきも神さびわたり、此社は伊与の国三嶋明神をうつし奉ると聞にも、能因入道、伊予守実綱が命により歌読みて奉りけるに、炎旱の天より雨にわかに降て、枯れたる稲葉もたちまちに緑にかへりけるあら人神の御名残なれば、ゆふだすきかけまくもかしこくおぼゆ。

  せきかけし苗代水のながれ来て又あまくだる神ぞこの神

  かぎり有道なれば、此みぎりをも立出、猶行過るほどに、箱根山にも着きにけり。岩がね高く重て、駒もなづむばかり也。山の中に至りて」、湖広くたゝへり。箱根の水海と名付、又芦の海といふもあり。権現垂迹のもといけだかくたふとし。朱楼紫殿の雲に重れる粧、唐家の驪山宮かとおどろかれ、厳室石龕の波に望めるかげ、銭塘の水心寺ともいひつべし。嬉しきたよりなれば、うき身の行衛(ゆくへ)しるべせさせ給へなど祈りて、法施たてまつるつゐでに、

  今よりは思ひ乱れじ芦の海のふかきめぐみを神にまかせて

  此山をも越え下りて、湯本といふ所にとまりたれば、太山颪(おろし)はげしくうち時雨て、谷川みなぎりまさる。岩瀬の波高くむせび、暢臥房の夜の聞(きき)にも過たり。かの源氏の物語の歌に、「涙もよほす滝の音かな」といへる、思ひよせられてあわれなり。

  それならぬ馮(たの)みはなきを故郷の夢路ゆるさぬ滝のをとかな


仁治三年八月廿四日(グレゴリオ暦9月27日)

 

  この宿をもたちて鎌倉に着く日の夕つかた、雨俄に降り、みのかさも取あへぬほどなり。急ぐ心にのみさそはれて、大礒、絵嶋(えのしま)、もろこしが原など、聞ゆる所々を、見とゞむるひまもなくて打過ぬるこそ、心ならずおぼゆれ。暮かゝるほどに下り着きぬれば、なにがしのいりとかやいふ所に、あやしの賤が庵を借りてとゞまりぬ。前は道にむかひて門なし。行人征馬簾のもとに行違、後は山近くして窓に望む。鹿の音虫の声、垣のうへにいそがはし。旅店の都にことなる、やうかはりて心すごし。

 かくしつゝ明し暮すほどに、つれづれも慰やとて、和賀江の築島、三浦のみさきなどいふ浦々を行て見れば、海上の眺望哀を催して、来し方に名高く面白き所々にもをとらずおぼゆる也。

  さびしきは過(すぎ)ごしかたの浦々もひとつながめの沖のつり舟

  玉よする三浦がさきの波まより出でたる月の影のさやけさ

  (以下中略)


仁治三年十月廿三日(グレゴリオ暦11月24日)


  かゝる程に、神無月の廿日余りの比(ころ)、はからざるとみの事有りて、都へ帰べきに成ぬ。その心のうち水茎の跡もかき流しがたし。錦を着るさかへは、もとより望む所にあらねども、故郷に帰るよろこびは、朱買臣にあひ似たる心地す。

 故郷へかへる山路の木がらしは思はぬ外(ほか)のにしきをや着む

十月廿三日のあかつき、すでに鎌倉を立て都へをもむく。宿の障子に書つく。

  なれぬれど都をいそぐ朝なればさすが名残のおしきやどかな

  以上引用終わり

 

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