近江国柏原宿
近江国坂田郡柏原(滋賀県米原市柏原)は古くからの集落であり、東山道、鎌倉街道、江戸時代には中山道が通過する村であった。しかし文献史料にその地名が登場するのは以下に示すように鎌倉時代以降である。尾藤卓夫氏は平安時代中期に白河天皇の中宮藤原賢子に仏聖燈油料荘園が立荘されたとしているが、出典とされる『平安遺文』に筆者は確認できていない(尾藤卓夫『平安鎌倉古道』p.343)。
文献に現れる「柏原」に関する記事
吾妻鏡には、次のように出現する。(出典:貴志正造『全釈吾妻鏡』Ⅱ、新人物往来社)
- ●建久元年(1190年)十一月二日
- 近江国柏原において、前兵衛尉(藤原)忠康を召し取らる。すなわち雑色をもって、その由を民部卿経房の許に触れ申さると云々。(頼朝上洛時の出来事、p.174))
- ●正治二年(1200年)十一月一日
- ●正治二年十二月廿七日
去月廿二日頭辨(三条)公定朝臣を奉行として近江国の住人、柏原弥三郎(為永)を追討すべきの由宣下せらる。(p.393)
官軍かの柏原弥三郎が住所、近江国柏原庄に発向するの刻、三尾谷十郎などなど、件の後面の山を襲ふの間、賊徒逐電しをはんぬ。(p.395)
柏原の地理的環境
柏原地区は古代からの住居遺跡が多く、条里に基づく地割も行われ先進的な豊かな地域だったと想像される。平安時代に入り成菩提院が天台宗中本山として開かれ仏教の道場として地域有力者の帰依を集め中世に至り繁栄することとなった。また近江から美濃に抜ける唯一のルート上にあり、交通集落としての機能は当初からあった。おそらく古代東山道の時代にも何らかの施設があったことは想像に難くない。平安時代にも重要性は変わらず、地域の有力者(長者)がこの地域の交通サービスを提供していたと考えられる。古い時代の集落は成菩提院門前の南側の小野集落と考えられている。鎌倉街道は水を避けるため山裾をなぞるように通過していたようだ。