更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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東山道清水(しゅうず)駅家、神崎郡衙と老蘇(おいそ)の森について

  古代駅路の建設は耕地の条里区割りと関係している場合が多い。近江国の駅路については足利健亮氏により詳細に研究され、その建設構想と現在に残る路線が明らかにされた。道路の建設と灌漑水路の整備を伴う耕地の条里区割りは、国家的インフラ整備事業であり、結果的に当時の食料生産と流通に飛躍的経済効果があったと思われる。もちろん駅路の使用は表向き公用に限られていたものの、実際には地元住民の交通にも使われていただろう。この湖東地方の一例から駅路がいかなる方針で計画されたか、その一端を紹介する。(※街道の進行方向は京都から下り方向で記述)
タイトル画像は古代の近江地方において測量目印となった伊吹山(1377m)。神崎郡衙趾と見られる大郡神社


 近江国野洲郡から神崎郡にかけて駅路は篠原駅→清水駅→鳥籠駅と結んでいる。守山以北は、ほぼ後世の中山道に継承されていると考えられているが、勢多駅から篠原駅までの区間は従来考えられていた路線が、野路岡田遺跡(JR南草津駅)における東山道遺構の発見により再検討が必要となっている。



(1)草津から篠原駅までは条里線に沿って建設


  下図に示すように東山道は草津市矢倉から守山までは条里線に沿って建設、鏡以北は蒲生郡の条里に沿って直線的に清水鼻迄進む(足利健亮『古代地理研究』p.329、吉川弘文館)。守山-鏡間は条里線を生かしたルートも考えられているが、山あいでもあり中山道と同じく条里を無視し直線的に最短距離で接続していたと考えられる。これに関係して大篠原に今に残る小堤の築造時期の問題がある。西池と呼ばれる溜め池は約500mに及ぶ堤防が築かれ今も豊かな水を湛えている。この小堤は平安末期を描いた平治物語に登場するので少なくとも平安時代末期には存在した。これ以前については想像となるが、駅路建設時に湿地帯であったこの地域を横断するために道路建設と同時に堤防が建設され、その上が駅路となったとすればわかりやすい。篠原駅家は野洲郡衙の存在と前後の駅間距離から現在の小篠原が適当とされている。野洲郡衙比定地として、中山道から程近い小篠原遺跡が有力視されている(野洲市小篠原字上池田1284)。


(2)鏡から清水鼻迄条里線に沿って直線的に進む

上に示す地図は足利健亮氏によって明らかにされた東山道が条里線に沿って建設されていることを示す説明図である。北から順にA→B→Cと連続する。ただしA、Bは方位が同じだが、Cは方位が異なるので注意!。


Cに示すように、東山道は、ほぼ中山道と同じルートとなる。つまり中山道は東山道を踏襲している。建設時の目印は地形で見れば、清水鼻地峡となるが、植生を考えると、実際の目標は古くからの歌枕でもある「老蘇の森」ではなかろうか。現在の老蘇の森は古代から時代と共に縮小し、近年では新幹線工事のため、神社の鎮守の森規模に迄小さくなってしまったが、かつては遠方からもはっきり視認できる程の巨大な森であったようだ。だからこそ、歌枕にもなったのである。因みに老蘇の森は奥石(おいそ)神社由緒によれば、人の手で植栽された人工林である。植林の目的は湿地の水分を木本に吸収させ周辺を耕地化する為であろう。中山道は老蘇の森のにぶつかると森の外側を迂回したために直線が膨らんでしまった。おそらく、多少の丘等お構いなしに切り崩して直線的に進んだ古代駅路も、さすがに神域には踏み込むことを憚ったのであろうか。



老蘇の森由来(現地案内板)


  古来老蘇の森一帯は蒲生野と讃えられ老蘇 武佐 平田 市辺の四ケ村周辺からなる大森林があった。今尚近在に野神さんとして祀れるも大杉が老蘇の森の樹齢に等しいところからすでに想像されるが現在は奥石神社の鎮守の森として其の名を留むるのみで面積は六十反歩を有し松杉桧等が生い茂ってゐる。奥石神社本紀によれば昔此の地一帯は地裂け水湧いて人住めず七代孝霊天皇の御宇石部大連翁等住人が、この地裂けるを止めんとして神助を仰ぎ多くの松杉桧の苗を植えしところ不思議なる哉忽ちのうちに大森林になったと云われている。この大連翁は齢百数十才を数えて尚と壮者を凌ぐ程であったので人呼んで「老蘇」と云ひ、この森を老蘇の森と唱え始めたとある。また大連はこの事を悦び社壇を築いたのが奥石神社の始めと傳えられている。

古歌に

東路の思い出にせん郭公(ほととぎす)老蘇の杜の夜半の一聲
(大江公資 後拾遺和歌集 )

史跡 老蘇の森鎮座(石碑案内文)

 式内社 鎌宮 奥石(おいそ)神社

 御祭神  天児屋根命 一座

 例大祭 四月吉日

 社殿 三間社 流造向拝付

 重要文化財 天正九年正月建立



安産守護の由来

景行天皇の御宇、日本武尊蝦夷征伐の時、弟橘姫命は上総の海にて海神の荒振を鎮めんとして「我が胎内に子を宿すとも、尊に代りその難を救い奉らん、霊魂は飛び散り江州老蘇の森に留り永く女人平座を守るべし」と誓い給いてその侭海中に投じ給ふ云々とあり、古来安産の宮として祈願する諸人多し。

 安産祈願、交通安全祈願、など随時受け付け

史跡 老蘇の森 昭和二十四年七月文部省史跡指定

 奥石神社本記に依れば、此の地一帯は地裂け水涌いて、人の住める処でなかったのであるが人皇七代孝霊天皇の御代住人であった石辺大連という翁が神助を仰ぎ、松・杉・桧等の苗木を植えた所、忽ち大森林になったと云う。

平安期以来、中山道の歌所として、和歌や紀行文又は謡曲等に詠ぜられたもの頗る多く、文人墨客の杖を引く者多くあった。

き江ね(消えね)
たゞ老曽のもりの秋風も 心にかよふ袖の上の露   太田道灌


東路の思い出にせん郭公(ほととぎす)老蘇の森の夜半の一聲  大江公賢


<この地域の地質特性>


  奥石神社由緒からも想像されるが、この地域は上古(6世紀以前?)には湿地帯であったらしい。それは少し南方の武佐地区に伝わる、かつての名産”武佐墨”からも類推される。武佐墨(注1)とはこの地に産した泥炭原料の筆記用の墨であるが、色が薄く、粒子も粗かったので江戸時代初頭に松煤から作られた墨に取って代わられた。それはともあれ、この地では湿地であった太古の時代に堆積した植物が泥炭化して燃料としても利用されていたという事実がある。この湿地状態は改善したとは思われるものの武佐宿以北は鎌倉時代までも耕地化は達成されていなかった。東関紀行によれば『笠原の野うち通る程に老蘇の森といふ杉むらあり』とあり、この一帯は広く蒲生野と呼ばれていた地域であった(注2)。




注1)「武佐墨」についてはネット上に解説があったので引用させていただいた。(以下引用)


  貝原益軒の『岐蘇路記』には、この辺では、すくもというものがあって、地を深く掘ってとる。墨の如くで、柴の葉の朽ちたものに似ている。その中に木の枝のあることもある。火をつければ、よく燃える。里人はこれを掘って薪にする。火をよく保つ、というようなことが書かれている。すくもは藻屑と書き、泥炭などをいい、すくも石は石炭を指している。しかし、これらは江戸末期には、既になくなっていたようである。享和2年(1802)、太田南畝が大阪から江戸へ帰る途中、この宿に泊まったときのことが、『壬戌紀行』に書かれている。宿の人に「すくも」のことを尋ねと「しらない」と返事され、武佐升を売る店があるかと聞くと、「ない」とう答えだったという。

引用元 http://namihei.no.coocan.jp/kaido/nakasendo/166.html


注2)蒲生野は湿地か乾燥地か


蒲生野は前掲の図中C蒲生郡を見ればわかるように条里は武佐以北には施工されていない。そこは蒲生野という不毛の草原であった。そこが太古の時代には湿地であり、それを改善するために古人は植林したのだろうと考えたのだが、足利健亮氏は逆に水利が悪かったため乾燥化し不毛の野になったと考えている(足利健亮『日本古代地理研究』p.377、吉川弘文館)。



(3)神崎郡衙と清水駅家 


  老蘇の森を抜けた後,現代の中山道では西方に左折し観音寺山の方に向かい突き当たった石寺の集落から山の裾を北上し清水鼻を過ぎ五個荘地区に入る。これは東山道の原型ではなく黒坂修平氏(『東山道の実証的研究』p.97)によれば戦国時代、佐々木(六角)氏により築かれた観音寺城の城下町石寺を通るように街道が寄り道をさせられたためだとしている。ただし、明治時代の地形図には原型に近い道が中山道として残っている。

ともあれ街道は、観音寺山と箕作山の地峡に進む。この地峡の出っ張りが清水鼻である。「鼻」とは先端を示す地名によく出現する。地峡を当初の想定路線に従い約1.5㎞まっすぐに抜けた後神崎郡に入ると、道は20度北西に変針する。これは神崎郡の条里基線に移行したためである。ではこの神崎郡の条里基線は一体何を基準に決められたかと言えば目視できる目標物、多くは目立つ山、ここでは伊吹山がそれにあたる(武部健一『古代の道』p.105(吉川弘文館)。つまり神崎郡以北の条里は伊吹山を見通せる駅路線を基準に施工されている。神崎郡衙はこの駅路線が屈曲する辺りにあるはずで、実際に発掘調査の結果、大郡(おおごおり)神社の周辺から多くの遺構が発見され、神社敷地一帯が官衙の中心であることが明らかになった。下の神崎郡衙周辺詳細図に郡衙域を黄緑の線で示した。東山道の屈曲点は現在の住居表示で東近江市五個荘竜田町675-15地先である。但し、現在この屈曲点に立っても伊吹山が見える日は限られているようである。沿道の建築物による視界制限がなくても、おそらく見えるのは冬季の湿度が低く空気清澄な時期に限られるのではないだろうか(現地在住でないのでよくわからない)。


  清水駅家の遺構は発見されていないが、駅家は郡衙の近隣に設けられることが多い。この点から駅家位置について黒坂修平氏は駅家に関連する小字名も考慮し、東山道を挟んで神崎郡衙の向かい側で、八日市に向かう古道にも面する交通至便な場所であろうと推測している。具体的には詳細図中の山本、あるいは新堂地区である(『東山道の実証的研究』p.100)。

 



<大郡遺跡>(現地案内板)


  大郡遺跡は、奈良・平安時代(約1300~800年前)に、近江国に置かれた12の郡の内、神崎郡の役所(郡衙)にあたる遺跡です。

  昭和55年からの発掘調査で、遺跡の大まかなようすが判ってきました。遺跡は、東山道(中山道)に面して、大郡神社を中心として東西・南北それぞれ400m程に広がり、その中は溝や柵で区分された掘立柱建物が数棟ずつ、いくつかのグループに分かれて建っていました。特に、神社の周辺が中心部であったらしく、桁行5間(13.5m)・梁行2間(6.1m)の大きな建物などの数棟が計画的に建てられていました。その北側では、倉庫や館などのやや小さい建物と井戸が発見されています。

  遺物には、役人(郡司)が儀式や宴などに使った土器が多く出土し、事務に必要な硯も見られます。また、役所の中心物(庁屋)は瓦葺建物であったらしく、布目の瓦が出土しています。

  「続日本紀」 によると天平16年(744)8月に、神崎郡の長官(大領)に沙々木山君足人という人が勤めていました。以上、大郡遺跡は、奈良・平安時代の行政の中心であり、五個荘町の歴史を明らかにするうえで、重要な遺跡です。

  昭和63年3月
           五個荘町教育委員会

 

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