更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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琵琶湖東岸の地理的環境と東山道、平安鎌倉街道

  近江国は琵琶湖という巨大な水資源を持ち農業生産に加え、水上交通の点からも極めて恵まれた地理的環境にあった。特に琵琶湖東岸は西岸に較べ平坦地が多く気候も温暖なため農業生産性も高そうである。確かに現代では積極的治水対策が行われているので、その通りであるが、江戸時代以前は決して手放しで生産性が高い土地という訳ではなかった。琵琶湖特有の構造的問題があった。


(1)湖東地方の地質特性と水利


  湖東地方は風化の進んだ花崗岩が多く、そこから流出する礫・砂が河川により山地から流出し低地部に堆積し河口には平野が形成される。一方、琵琶湖には約3万本の河川が流入するが、排出する川が瀬田川一本だけであることが、水災害の原因となり近江国の歴史的課題であった。


河川の氾濫


  琵琶湖に流入する河川は数は多いが、川の長さは短く多くは急流である。そのため梅雨や台風等降水量が多い季節には山地に降った雨で、一気に流量が増え、そのすべてが琵琶湖に流れ込む。湖から一本の河によって流出される水量は流入量にはるかに及ばないので湖面水位は上がる。現在の琵琶湖の平均湖水面は、瀬田川の浚渫が行われているため約85mであるが、河川工事が行われなかった江戸時代以前はもっと高かった。

琵琶湖の場合、湖面の高さは沿岸の浸水被害に大きな影響がある。湖面が高いときに大量の水が流れ込めば、湖面が上がり平野部が多い湖東地方には浸水地域が広がる。逆に水面が低くなりすぎると、流域の河川からの取水ができなくなり水不足で農業は打撃を受けた。そのため古くから流域の集落間で水争いが絶えなかったという。


天井川の形成


  山地から大量の砂礫が流れてくるので、当然、川にはそれが堆積し、川床が高くなる。放置すると次の洪水の時に越水するので、堤防を高くせざるを得ない。これが続くと川の水面は周囲の地表面より高くなり川に直角方向の交通の障害となる。天井川の障害はこれだけではない。堆積する花崗岩由来の砂礫は透水性が高く、水は直ぐ地下に浸透してしまい、中流域以下で川は水なし川になってしまう。この川からは取水はできず灌漑用水が得られなくなる。広重の中山道・高宮の浮世絵に描かれた犬上川には普段は大きな流れはなく、歩いて渡ることができた。橋板は橋桁から外してどこかに保管してあり、雨の季節だけ橋を架けていたという。



  天井川のもう一つの弊害は、耕地にたまった余分な水(悪水)を川に落として排水できないことである。

  湖東平野にはこのような天井川が多く、近代土木工事や機械力が利用できない時代にあっては、対策として細かい努力が重ねられていた。例えば水を得るために各所に井戸や溜池が掘られた。悪水の排出対策としては排水路や小規模な池が多数作られた。しかし、このような対策では抜本的解決にはならず、最終的には明治以降の近代治水工事を待たねばならなかった。

※現代になると天井川そのものを廃川とし新たな放水路を掘るという根本対策が行われている。悪水問題もポンプで排水することでほぼ解消している。昔の地理の教科書に天井川の一例としてあった、川の下を鉄道トンネルが通る草津川は平成14年に廃川となり元の河道は草津川跡地公園というレクレーション施設になった。


天井川が改修された一例として篠原神社の少し東にある家棟川をあげる。


家棟(やのむね)川と隧道(すいどう)の歴史    滋賀県  (現地案内板)

  時の流れは、この場所に様々な変化をもたらしました。ここには現在と異なり川底が周辺家屋の棟の高さまでにもなった「天井川」の家棟川が流れていました。そのため、ここを通行する人々や車馬は堤防に上がり大変な苦労をしながら、川を渡っていました。

  大正6年(1917年)の大正天皇陸軍大演習の行幸にあたり、「天井川」の下に突貫工事でトンネルが掘られました。そのトンネルは「家棟隧道」と名付けられました。  
  以来、「家棟隧道」は昭和28年の国道8号の開通まで中山道として国土の幹線軸の一端を担ってきましたが、、家棟川の切下げ工事を機にその歴史的価値を惜しまれつつも通行の安全性などに配慮して撤去されました。

※天井川とは、主に江戸時代、上流の山地部で多くの樹林が伐採されましたが、伐採後の植林等の適切な処理がされなかったため、山地が荒廃して土砂(風化花崗岩)が豪雨のたびに下流部分へ流出し、川底が上昇してできたものと考えられています。



 


(2)野洲市大篠原地区に見る小堤と東山道の関係


  大篠原地区には昔から「小堤」という地名があり実際に西池という溜池の堤防となっている。古代東山道はこの堤防の上を通っていたのだが、これはいつ頃築造されたものだろうか。この堤防は鎌倉時代の紀行文『東関紀行』に登場するが、平治物語にも頼朝敗走中に「篠原堤」で土民に捕まりそうになったエピソード(注1)があるので平安時代にも存在していたことが明らかである。

鏡から野洲川河畔に至る街道は下図に示すように蒲生郡、野洲郡のいずれの条里地割にも従わず直線的に施工されている。これは元の地形を利用したのではなく、計画的に築造された道路であることが明らかである。足利健亮氏は以上の点を踏まえ東山道建設に当たり「小堤」(あるいは「篠原堤」)は計画的に築造されたものであり、少なくとも奈良時代以前に建設されたと推定している。



  図の引用元:足利健亮『日本古代地理研究』p.339(吉川弘文館)、一部加筆

図中のテ点からエ点を結ぶ堤防は丘陵の突端を結んでいることに注目したい。この堤防は丘陵から流出する雨水を堰止め西側の条里耕地に溢れ出すことを防ぐものであった。堤防の内側にある池(蛙鳴かずの池、東池、西池が現在まで残る)は築堤の為の土取りと、溜池の掘削を兼ねたものであった。古代人はまさに一石二鳥の工事を行なったのである。これは仮説であるが、いつの日か発掘調査で明らかになることを期待したい。ところで、図のエ点から野洲川に至る間の氾濫水は野洲川に流れ込んだのだろうか。奈良時代には天井川化が進んでいなかったのだろうか?疑問は残る。



(注1)「篠原堤」:平治物語 中 「金王丸尾張より馳せ上り、義朝の最期を語る事」新日本古典文学大系43,p.226(岩波書店)以下引用

  遠路をよもすがらはうち候ぬ、夜あけて後、馬ねぶりをして候ける。篠原堤の辺(ほとり)にて、物がどよみ候間、目を見あげ候へば、男が四五十人、とり籠候しほどに、太刀をぬいて、馬の口に取付たる男の首(かしら)を切わり候ぬ。今一人をば、腕を打落候とぞ覚え候し。太刀のかげにおどろきて、馬がつッと出候へば、少々ふみをされ候ぬ。

 

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