更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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草津市周辺の東山道、鎌倉街道と近江国府、勢多駅家、野路岡田遺跡の関係

  勢多駅家は古代東海道や東山道の実質的起点である。ここから野洲川迄の区間は栗本郡という行政区分にあった古街道のルートを明らかにしたい。東山道と中山道はほぼ同じルートをとると考えられているが明確でない点がいくつかある。(1)近江国府から草津迄の古代東山道の経路(2)鎌倉街道の経路(3)東山道から分岐して琵琶湖岸から粟津に渡る水路の存在などである。
いずれも時代的変遷があるので、実像がつかみにくい。


(1)近江国府と勢多駅かの位置


  近江国府は発掘調査で位置が確定された数少ない例である。下図案内板のように国府は大津市大江6丁目を中心とする丘の上にある。勢多駅はまだ確定的な遺跡発掘に至っていないが、現在のところ国庁の西の丘陵にある「堂の上遺跡」ではないかと考えられている。仮にそこを勢多駅とすると街道は駅のすぐ南を通り、国府域に入り、現在も残る北に向かう大路を500m程北進すると、江戸時代の中山道と直交する。古道は右折せずに約1.5㎞直進し南大萱(現在の住居表示:大津市大萱3丁目9あたり)から北東に変針し野路方面に向かう。



(2)鎌倉街道


  駅路は平安時代以降、駅制衰退後も地理的、経済的合理性がある区間は平安・鎌倉時代を通じて使い続けられたが、古代東山道はどうなっただろうか。草津市史は野路ー野洲川間について東山道とは異なる鎌倉街道を提案している。(尾藤卓夫『平安鎌倉古道』p.378)それは大正11年測図の二万五千分の一の地形図には野洲川から中山道に平行して約1㎞東寄りに草津市野路に向かう一筋の道が見える。おおよその経路を集落名で示すと、千代ー野尻ー下鈎ー東小柿ー新屋敷ー追分ー野路となる。しかし残念なことに現代の地図にはその道路痕跡は断片的に残るのみである。現段階で草津市史を参照できてないので、どのような典拠からこのルートを鎌倉街道としたのかわからないが、それなりの根拠があるのだろう。


  主要道路である街道がコース変更される最大の原因は風水害による路盤流失や冠水である。また地震に伴う液状化現象による沈降もある。東山道が災害に遭い復旧の見通しがない場合には、より安全な丘陵側に移動し、これが安定して維持できるものであれば、官道鎌倉街道とされる。では現在江戸時代の中山道は古代東山道を踏襲しているとされるが、いったん東に移ってまた元の位置に戻ったのであろうか。実は二つのコースの地形的差異はほとんどないので、恒久的に東に移動する必然性はなかった。筆者は草津市史のいう鎌倉古道は単なるバイパスではなかったかと思える。従って筆者はこの野洲川-野路間の鎌倉街道は東山道、中山道と同一であったと考えたい。



近江国府から野路までの東山道


  近江国府を出た東山道は前述の如く大萱3丁目から北東に変針し野路方面に向かい矢倉付近で東山道直線部分に接続する。これはおそらく当初の設計コースであろうと思われるが、いつ頃まで存続したのかという問題である。この道路は比較的早期に崩壊したと想像できる。模式図を見れば野路以北までは条里遺構が見られるが、それより南は条里がない。また野路周辺には、既に埋められたものを含め池が多い。野路岡田遺跡はたまたまその湿地帯の微高地に形成された集落であった。この場所は現在のJR東海道線南草津駅の西側ロータリーに当たる。遺跡の年代としては12~13世紀平安末期から鎌倉時代と言われる。現在、南草津駅のある場所にはつい最近まで狭間(ざま)池があったが、駅開発に伴い埋められた。南大萱から伸びた東山道はちょうど狭間池のあたりを通過する。つまり東山道建設時には低湿地であったにしろ池ではなかったことを意味する。このことから、時代は特定できないが、いったん造成された道路は沼沢地となり放棄された可能性が出てくる。その結果、東山道は現在に残る中山道のルートに移ったことが考えられる。その時期については、野路岡田遺跡が発掘された道路趾の西側にあることで、鎌倉時代以降であるとも考えられるが、周辺地域も含めた遺跡の全貌が明らかになる迄確定的なことは言えない。


(3)矢橋(やばせ)道


  江戸時代の中山道では草津市矢橋と大津市の打出浜を結ぶ琵琶湖を横切る航路があった。水路を使えば歩くのが3里短縮になった。また尾藤卓夫氏は、守山から湖岸の志那に向かう志那街道にも言及しているが、こちらは守山から志那まで約7㎞あるので、それなら矢倉まで歩き矢橋で舟に乗った方が水上距離が短いだけ早く打出の浜に着く計算になる。志那からの航路は坂本を結ぶものであった。従って京への湖水交通路は矢橋経由に限定するとして、この水路はいつの時代まで遡れるだろうか。黒坂周平氏は矢橋道の沿道に「牛ヶ町」「馬池下」「駒の口」「人宿り」などの地名が連なっているところから、矢橋は古代から既に琵琶湖の重要な港であったのではないかとしている。(『東山道の実証的研究』p.90、吉川弘文館)
  余談だが、矢橋航路は「急がば回れ」という諺の起源であった。つまり、気象が平穏であれば確かに舟を使えば距離が短くなり早く着けるが、往々にして風向きが悪ければそうは行かない。特に冬季は比良おろしが湖面を西から東に吹き抜け、帆船には逆風となる。そんな時は距離は長くなっても瀬田の橋に回った方が確実に早く着ける。実際に江戸時代の矢橋航路利用の半分は貨物であったそうである。(『近江名所図会』p.78、柳原書店)

近江八景、矢橋帰帆(歌川広重)
画中の詞『真帆かけて矢橋にかかる舟はいまうち出のはまをあとの追風』

 

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