尾張愛知郡、熱田の「宿」機能について
鎌倉時代以前には尾張国熱田は東海道が美濃路を経由して東山道に向かう重要中継地点であった。しかも熱田は鳴海に抜ける際に時刻によっては潮待ちする必要があるので何らかの宿泊、休憩施設がなければ旅人は非常に困る。困った人がいる場合には、時代に拘わらず、必ずそれを商売にする者たちが現れるものだが、何か平安・鎌倉時代の宿泊に関する記録は残っていないだろうか。
※タイトル画像は法然上人絵伝(播磨国室津)より
熱田が旅の宿泊中継地であったことは疑いない
熱田宮がある熱田半島は高蔵遺跡等弥生時代以降の遺跡が多数存在し、文化的、経済的先進地域であった。その歴史的基盤の上に熱田の宮が祀られていた。江戸時代の熱田周辺の賑わいを見れば、ずっと昔からそのような繁栄があったと思えるのだが、実は熱田宮周辺に町屋が出来たのは江戸時代以降の事らしい。戦国時代の熱田宮享禄古図を見ると宮の周囲には神域を区画する築地塀や玉垣はなく、その外に町屋らしきものもない。それどころか、宮の南端、一の鳥居のすぐ下は海で漁師が網を引いている。飛鳥井雅有は『春の深山路』で、潮待ちの間、漁師の家に入り、酒を取り寄せて時間をつぶしている。『東関紀行』の作者は夕暮れ近い時刻に熱田に到着し、夕日に輝く玉垣の神々しさを賞でている。このようなことから想像すると、鎌倉時代には玉垣こそあったものの、神域は開放的で建物の蔭で野宿することも可能で、作者は参拝の後、玉垣近くの木陰で秋の夜長を過ごしたのだろう。冬には飛鳥井雅有のように、潮待ちの為、漁師小屋に一時の宿を借りることもあっただろうし、潮の具合によっては一夜の宿を借りることもあったに違いない。漁師も心得たもので、取ってきたばかりの魚を酒肴としてもてなし、一稼ぎしたのではないだろうか。平安時代にも恐らく事情は同じで、この辺りの漁師は今でいう民宿をやっていたと考えられる。暖かい季節なら広大な神社の森で誰でも自由に野宿できただろう。古への神様は”日没以降入場禁止”などという無粋なことはおっしゃらなかったと信じたい。
熱田宮に関する文献史料
①尾張国の熱田と熱田神宮については大日本地名辞書(吉田東吾)
今熱田町、人口七千、名古屋の南に接する駅にして、海陸の通衝に当たる。
尾張志云、熱田は近世宮の宿と云ひ繁昌すれど、王朝の古駅にあらず、武家執政の世となりては、京都より鎌倉へ通ふ道筋にて、今の如く旅宿もありしよし、吾妻鏡、源平盛衰記等をはじめ、古軍書紀行などに見えたれど、今の繁昌のさまには及ばざりし也、当所地蔵院の天正元年の古證文に、今道、東脇等に住みしと覚しき人の名見えたれど、皆新地なるべく、享禄の神宮図にも南の方は至て少く伝馬町のあたりは濱ばたのやうにおしはからる、されば三四百年已前までは家並も多からず、其後追々海へ築出し、町家ともなりしかども、二百年已前には家作も麁略に、旅宿などもはかばかしからずありしにや、明暦三年に印行したる東海道の道中記といふものに、五十三駅のよしあしをことはりて「なるみ宿悪し、みや宿悪し」と書たり、今をもて見れば、其五十三駅のうち此宮宿にまされる駅のさらになきにて、古今の変華を知るべし。
②春の深山路
十一月十八日、よべ(昨夜)ふくるまで遊びて上下寝すぎぬれば、日出る程にぞ発ちぬる。 熱田の宮は昔日本武命、吾妻を平らげ給ひし時、夷(えびす)、野に火をかけて命(みこと)を焼殺さんとしけるを大きなる桂の木焼けて倒ふれたりけるに田中の水熱くなりたりしより熱田といふ也。其の時天の早切りの剣にて草を薙ぎて逃れ給ひしかば、その剣を草薙の剣(つるぎ)と申しき。その剣をこの御社に斎ひて侍れば、いちはやき神にぞおはしますなる。此の夏比宮のうちおどろおどろしく鳴り響きつゝ、つい(続)松の火多く四五千ばかりにて向かへの伊良湖が崎まで続けり。古にし文永の初めつかたもかくありけるとかや。蒙古の国の故とぞ後には思ひ合わせけるとかや。いよいよ新たに覚ゆれど精進をせねば参らず。心の内ばかりに法施(念仏)まいらせて過ぎぬ。この丹後の前の司(さきの前司)なる男、あまの家に押し入りて潮干待つ間は浦隠れ居侍らんとて、酒取り寄せつゝ名残を惜しみつゝ遊ぶ。三百杯ならねど(和漢朗詠集を引く)手を盃に分かちて各々あざれゐたり。潮干ぬと申せばうち出ず。これよりこの男帰りぬ。鳴海潟は今干始むれば馬の蹄着くばかりに浪流れて中々興あり。
③東関紀行 仁治三年八月十六日(グレゴリオ暦9月19日)
萱津の東宿の前を過れば、そこらの人あつまりて、里もひゞく計(ばかり)にのゝしりあへり。今日は市の日になんあたりたるとぞいふなる。往来のたぐひ、手毎にむなしからぬ家づとも、彼(かの)「見てのみや人にかたらん」とよめる、華の形見にはやうかはりておぼゆ。
花ならぬ色香も知らぬ市人のいたづらならでかへる家づと
尾張国熱田の宮に至りぬ。神垣のあたり近ければ、やがてまいりて拝み奉るに、木立年ふりたる杜の木の間より、夕日影たえだえさし入て、あけの玉垣色をそへたるに、しめゆふに彼(かの)ゆふしで風にみだれたることがら、ものにふれて神さびたる中にも、ねぐらあらそふ鷺むらの数もしらず梢にきゐるさま、雪のつもれるように見えて、遠く白き物から、暮行まゝにしづまりゆく声も心すごく聞ゆ。有人のいはく、此宮は素戔嗚尊也。はじめ出雲国に国作り有けり。「八雲立」といへる大和言の葉も、是よりぞはじまれる。其後景行天皇御代に、この砌に跡をたれ給へりといへり。またいはく、この宮の本体は、草薙と号し奉る神剣也。景行の御子、日本武尊と申、夷(えびす)をたいらげて帰り給ふ時、尊は白鳥と成て去給ふ。剣は熱田にとまり給ふといへり。
一条院の御時、大江匤衡と云博士有けり。長保の末にあたりて、当国の守にてくだりたりけるに、大般若を書てこの宮にて供養をとげたりける願文に、「わが願すでに満ちぬ。任限又満ちたり。ふるさとへ帰らんとする期(ご)、いまだいくばくならず」と書きたるこそ、あはれに心ぼそくきこゆれ。
思出もなくてや人の帰らまし法(のり)の形見を手向をかずは
④赤染衛門家集(尾張地名考 p.67より引用)
春の頃あつたのみやといふ所に詣で、着きて見れば、いと神さび、おもしろき所のさまなり。ゆふしで奉るに風にたぐいてものの音もいとおかし。
笛のねに神のこゝろやたよるらん森の木風もふきまさるなり
③の東関紀行の記述から、平安時代中期、大江匤衡、赤染衛門夫婦は長保の末頃(~1004年)尾張に滞在したことがわかる。この折、お参りに訪れた熱田の宮はきちんと管理され、神々しく情趣深い場所であったようだ。彼らはこの日どこに宿泊したのであろうか。
熱田神宮古絵図(享禄…1528~年頃)
「神社のはじまり」、p.19、熱田神宮