更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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美濃国大井荘と荻(おぎ)神社の関係

美濃国安八郡には奈良時代から東大寺領大井荘が立荘されていた。荘内の荻神社は奈良時代の創建ではないかと言われるが、式内社でもなく、この荘園領域の総鎮守でもない。総鎮守は大垣八幡神社とされる。しかし、神社の御由緒書から荻神社は大井荘の四至確定のため、測量上重要な役割を果たしていた事が明らかになる。大井荘の成り立ちに関しては清水進『史料で探る西濃の歴史』(大垣市文化財保護協会)p.82 に詳しいのでそれに沿って概要を述べる。

大井荘は大中臣氏によって開拓され、東大寺に寄進された。大中臣氏は大井荘の荘別当や、下司などの荘官として代々、実質的支配者として大井庄を経営してきた。その支配は南北朝時代に及び、戦国時代に入り終焉した。


大井荘の範囲


  大井荘の領域に関しては以下2件の史料が残されている。

美濃国大井荘は天平勝宝8年(756)聖武天皇の勅により東大寺に寄進


時期史料

西
天平勝宝8年(756)大井荘勅施入文案藤江若林生子墓(南頬町)川口
承保3年(1076)美濃国符案御墓志墓(三塚)十六条三里四縄(笠縫、南一石町、木戸町、西崎町、切石町)
布志墓、十六条南縄十三条北縄(笠縫町、貝曽根町)

  現代地図に大よその荘園領域をピンクの枠で示した。荘園地は平坦地で多湿地を避けて囲い込んだ良田であったとみられる。奇しくも北は国道21号、南は国道18号(美濃路)で挟まれる。ざっと東西8㎞、南北6㎞の範囲になる。この荘域の東大寺への課税田数は建保2年(1214)の検地では112町とされている。





荻神社の性格と役割

  上記地図に於いて、萩神社は東西方向はほぼ中心辺りにある。神社由緒によれば、「おぎ」は「おおき」の転訛であり、その昔、ここに梛(なぎ)の大木、林があり、位置測量の目印としていたと推測している。つまり大井荘開拓時、荻神社の位置はそれ自体が重要であった。その後は、ランドマークとして祠が設けられたのではないだろうか。平安時代には、まだその大木の森がまばらになりつつも残っており、街道の目印になっていたと考えられる。更級日記の菅原家一行が通った時にもこのお社はありお参りしていったことだろう。


資料

(1)大日本地名辞書(吉田東吾)


 旧荘名にして、大垣市及び近郊皆之に属せり、大井庄は南都東大寺の領也、即古證文に、「美濃国安八郡大井庄、五十三町九反八十歩、天暦四年(950)十一月廿日、都維那法師」としるし、又「東大寺政所、大中臣清則、右補任大井庄別当職如件、康和(1101)三年二月廿八日、都維那法師」「大井御庄政所散位大中臣則平、右人補任、件庄下司之職如件、天治二年八月十一日」云々、「大井庄役事、令奏聞了、可計下知之由、被仰下候、定無殊儀、為其可有此旨仰候状、如件、正治二年(1200)五月右大辯」など見ゆ。


(2)萩神社御由緒(現地案内板)
御祭神不詳 脇社 御鋤神社(豊受大神)
萩神社は鎌倉時代の永仁三年(1295)の東大寺文書「永仁取帳」に「大木神」として初めて史料に登場します。これより先、平安前期の天慶から天徳年間(938-960)成立の「美濃国神名帳」記載の「正五位名木林明神」は当荻神社のことと思われます。「大木神」「名木林明神」の御神名から荻神社の御祭神は恵み多き木の魂、木霊(こだま)と推測されます。日本人は縄文の太古から大自然を神格化して信仰し神々への感謝と加護を祈ってきました。今の林町地域には上古、林があって梛(なぎ)の巨木が聳え、当地に木の霊を祀る当神社が創建された可能性があります。荻神社が大垣市内屈指の古社とされる所以です。
 ところで荻神社は奈良時代、聖武太上天皇の遺詔により光明皇太后が創設された東大寺領大井荘と密接な関係にあります。大井荘は天平勝宝八年(756)に成立後平安初期の承和十四年(847)に荘域が東と南に拡張されますが、この時、荻神社は東西領域の中心に位置することになりました。このことは荻神社を基準に新しい東西領域を決めたと推定されるのです。
 さて荻神社は西行伝説でも有名です。荻神社の前の道は鎌倉街道、それも最重要の「京鎌倉往還」です。若き日の西行は早春、鎌倉街道を欧州に旅する途中、当神社に参拝したと思われます。この時、西行法師は柳の大樹の下で遙かに稲葉山を美濃冨士と見て次の歌を詠んだとされます。(美濃明細記)
 ほのぼのと目路もかすみて青柳の枝にかゝれるふじの白雪
この歌により荻神社は「富士の宮」とも呼ばれた由ですが、先人たちは代々「大木明神」あるいは「大明神」と尊崇してきました。では荻神社がいつなぜ「大木」から「荻」になったのか、「おおき」と「おぎ」で発音が似ていることから転訛説が有力ですが、その時期理由は不明です。なお拝殿は明治二十四年の濃尾震災で前拝殿が倒壊したため明治四十二年五月募金寄付により再建されました。現存の拝殿は中央に通路(土間)のある割拝殿で江戸時代に遡ると思われます。全国的にも数少ない珍しい建築様式ですが鞍馬の由岐神社など京都に多く存在します。林中村と京上方との縁が感じられます。
古く林三郷(林本郷、林東、林中村)の総社とされた荻神社は明治四十一年、村社に指定、林中村地域の鎮守の氏神として崇敬され、今日に至っています。
  令和五年十月十五日     荻神社氏子会謹記

 

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