更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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平安東山道(美濃路・石越ルート)の検証

  平安時代中期には既に初期東山道(ほぼ中山道ルート)は崩壊していたと考えられ青墓から野上間は迂回路が存在したと考えられる。そのルートについて尾藤氏は下図のコースを提案している。そして下記のような説明文がある。いかにも、山里ののどかな古道風景だが、実際にそこを歩いてみると、これは別の場所の描写ではないかと考えられる。





  古道は円興寺南から山中に入るが、小さな峠までは平坦な道で、今は自然歩道になっている。平尾の民謡もこの辺りの風影を賞でたのではなかろうか。

夏の季ならば卯の花咲いて、撫子や、咲き来る風はそよそよと。

冬の季節なれば水仙寒菊 ビワの花 咲き来る風は雲の花

また田植え歌に、馬がもの言うた静かな坂でおさん女郎なら乗しよというた。

松風が谷を渡り、雲が行き、往時の往来を偲びながら散策を楽しむ。峠にさしかかる手前の右側のゆるい斜面が往時の威徳寺跡で、昔は風越庄の庄関があった地である。後世になって石越の地名に変わり、部落が現在の平地に移住したのはおよそ600年前(天文年間)で、威徳寺が現在地に移ったのもその頃であろう。大昔の中仙道も石越えを通って円興寺部落へ降りたと伝えている。

  このあたりから甕に入った宋銭が出土している。「峠を下る道は狭く森の中を曲がりくねって十分程で視界が広くなる。古老に車坂と教えられ、また「古宮、宮前、ネギ田の旧字名を残し、西の庵の谷(尼の谷)には尼寺があって小さな茶屋もあったそうだ。」

 宮前の南は「因幡神社」があったと考証する向きもあり、岐阜市の名社伊奈波神社の旧蹟とみる説もある。「ネギ田」は神官の園地であったと見られ、中世のロマンを感じさせる(尾藤卓夫『平安鎌倉古道』p326、
中日出版社)。


石越は行きどまりで、”街道”ではない


  上記説明文の中で

「峠を下る道は狭く森の中を曲がりくねって十分程で視界が広くなる。古老に車坂と教えられ、また古宮、宮前、ネギ田の旧字名を残し、西の庵の谷(尼の谷)には尼寺があって小さな茶屋もあったそうだ。」

上記の説明は林道の終点から先の事を述べているが、現場に峠などはなく挿入されている地図では尾根に上り、急な崖を下りネギ田に下りる。


現地調査

  実際に尾藤氏の記述するルート(『平安鎌倉古道』)に従って歩いてみた結果、林道終点から先は山林で山道らしきものはない。周囲に峠らしきものもなく尾根で囲まれている。また尾根を登り、最高地点から坂を下ろうにも傾斜が急すぎて危険である。やむを得ず傾斜の緩い北斜面に回り込んで下った。もちろん、周辺に人の踏み分けたような痕跡はない。しかも下りきった所には、害獣防止用のフェンスが張られ山から出る事も出来ない。フェンスに沿って回りこむと、わずかに砂防堰堤の箇所にフェンスの切れ目があり、そこからだけ脱出できる。出た所は熊笹がびっしりと生える斜面で、もがきながら登って刈り取りの終わった田んぼに出られた。おそらく、そこがネギ田という場所だろう。
 尾藤氏の調査の昭和40年代と、現在は山の様子も変わるとはいえ、明らかに説明文と添付地図は合致しない。筆者の感覚では石越地区は街道ではなく袋小路である。中世に存在した風越庄は山間の桃源郷のような小荘園だったのだろう。このような山はハイキングなら可能だが、荷駄の隊列を引き連れての山越えは困難である。又ここを通らねばならない必然性もない。ちなみに、現在の石越は画像のように林道沿いによく手入れのされた美林が続く。


※尾藤氏が地図に示したコースは険しくて街道としては機能しないが、石越からネギ田の方に、絶対抜けられないわけではない。その抜け道は大正時代の地形図に記載されている(Aコース)。「鎌倉街道(美濃路)、安八町、結(むすぶ)神社から大垣市、青墓町まで」を参照

尾藤氏著書に示されている前掲地形図と大正13年測図(2.5万分の1)の地形図には微妙に差がある。ひょっとしたら、尾藤氏は現代地形図に示されない廃道(抜け道)を地元の人の案内で歩いたのだろうか。


平安東山道迂回路はどこ?

 そもそも、街道は山越えのある石越に入らず丘陵沿いに円興寺→岩崎神社→八幡神社→国分寺→ネギ田→平尾神社 と進めば問題はなかった筈だ。
現代地図に尾藤説Aと本サイト説Bを示した。

 

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