枕草子(294段)に現れる”物品交換券”を思わせる短冊について
枕草子のこの一文は銭貨流通が途絶えた平安時代中期において、何らかの物品交換券(現代の商品券のようなもの)が存在したのではないかという、論拠として挙げられる。294段(岩波新日本古典文学大系)の話で下僕の男は家が焼け、家財道具を全部失ったので、何か援助して欲しいと御匣(みぐし)殿にお願いにきたのである。ところが、居合わせた清少納言はわざとらしい態度に心中怪しいと睨んで、物品支給指示書ではなく和歌を書いた短冊を渡した。字が読めない男は有難がって退出した。
尚、舞台は時の関白藤原道隆邸で中宮定子も在邸していた。裕福な関白家が仕える雑色達に施しをするのは珍しいことではないが、仮にそのような物品交換券のようなものがあったとして、どこで物品の交付、決済が行われるのだろうか。もしその流通範囲が道隆邸内であれば家司に渡すだけだろうが、それなら社会的な代替通貨の機能はない。もし邸外でも交換機能を持っていたとすれば、書式、花押、捺印などの形式が重要になる。それはいくら権勢家でも、仕える女房が簡単に発行できるものではない。よって物品交換券などが仮にあったにしても、それは限られた私的な空間(権勢者の屋敷、大寺院、大神社など)でのみ有効であったと考えざるを得ない。これをもって平安時代中期に小切手、商品券等の有価証券が存在していたとは考えにくい。
ちなみに、登場する下僕は過去に、”お涙頂戴”の演技で、まんまと「有難い短冊」をせしめていたと思われる。二匹目のドジョウを狙ってきたのであるが、うまくかわされてしまったという落ちである。
以下引用
枕草子294段原文
僧都の御乳母のまゝなど、御匣殿の御局にゐたれば、男(をのこ)のある、板敷のもと近うよりきて、「辛い目をみさぶらひて、たれにかはうれへ申し侍らん」とて、泣きぬばかりのけしきにて、「なにごとぞ」ととへば、「あからさまにものにまかりたりしほどに、侍(はべる)所の焼け侍にければ、かうなのやうに、人の家に尻をさしいれてのみさぶらふ。馬寮の御秣つみて侍ける家よりいでまうできて侍なり。たゞ垣をへだて侍れば、夜殿にねて侍けるわらはべも、ほとほとやけぬべくてなん、いさゝかも物持て侍らず」などいひをるを、御匣殿もきヽ給て、いみじう笑ひ給。
みまくさをもやすばかりの春の日に夜殿さへなど残らざるらん
とかきて、「これをとらせ給へ」とて投げやりたれば、笑ひのゝしりて、「このおはする人の、家やけたなりとて、いとおしがりてたまふなり」とてとらせたれば、ひろげてうちみて、「これはなにの御短冊にか侍らん。ものいくらばかりにか」といへば、「たゞよめかし」といふ。片目もあきつかうまつらでは」といへば、「人にも見せよ。たゞいまめせば、頓(とみ)にてうへへまゐるぞ。さばかりめでたき物をえてはなにをか思ふ」とて、みな笑ひまどひのぼりぬれば、「人にや見せつらん、里にいきていかに腹だヽん」など、御前にまいりてまゝの啓すれば、又笑ひさはぐ。御前にも、「などかく物ぐるをしからん」と笑はせ給。
枕草子、p.333、新日本古典文学大系25(岩波書店)
<現代語訳>
僧都(藤原道隆の息隆円)の乳母などと、御匣殿(道隆の四女)のお部屋にいたら、ある下僕が板敷の下に近寄ってきて、「ひどい目にあいました、どなたか聞いていただけませんでしょうか」といって泣きはらした顔をしているので「どうしたの」と聞くと「ちょっと出かけている間に、住んでいるところが焼けてしまったのです。ヤドカリのように人の家に尻をさしいれる羽目になりました。馬寮の御秣(まぐさ)を積んでいる家から出火し延焼したのです。ただ、垣を隔てているだけだったので寝床に居た妻もすんでのところで焼け死ぬところでした。何も持ち出すことができませんでした」。そんなことを言っているのを御匣殿もお聞きになって、大笑いされました。
みまくさをもやすばかりの春の日に夜殿さへなど残らざるらん
と書いて、「これをあげて下さい」と言って投げてやったら、(侍女は)笑い転げて「こちらにいらっしゃる人(男)の家が焼けたのを聞かれて同情されているのよ」といって渡すと、広げ見て「これは何の御短冊でしょうか。物はいかほど頂けますでしょうか」というので「まあ、読んでみたら」と言うと、「どうして読めましょうか。片目も開いておりませんので」というので「人に見せなさい。今丁度(中宮様から)お呼びあったのですぐお前に参ります。こんな有難い物を貰ったからには、何も言う事はないでしょう」といって、皆笑いながら御前に向かいました。「きっと人に見せたでしょう。里に帰ってどんなに腹を立てていることか」とか、乳母が(中宮の)御前でも申し上げて、又みんなで大笑いする騒ぎになった。中宮様も「(人の災難だというのに)どうしてこんなに大騒ぎするのでしょうね」とお笑いになった。