三河・鳥取(ととり)駅家考
参河国の駅家として倭名類聚抄高山寺本には鳥取(ととり)*、山綱、渡津(わとうづ)の三駅が記載されている。三駅のうち、ここでは鳥取駅について考察する。本サイトでこれまで、三河の鳥取駅は鷲取駅の書写ミスであろうと考えてきたが、鳥取駅が正しいと訂正する。
「鷲取駅家」は武田勇氏が最初に提唱されたものである。(『三河古道と鎌倉街道』p.83
*鳥捕とも書く
(1)訂正の理由
地名に因む鷲取駅を書写ミスで鳥取駅になったと考えてきた理由は、比定地として考えられている岡崎市宇頭地区に「鳥取」という郷名、字名がなく、代わりに鷲取(わしとり)郷があること、「鳥取駅」の文献史料は和名類聚抄、高山寺本だけであることから、鳥取駅は鷲取駅の書写ミスと考えてきた。
ところが、浜松市伊場遺跡から出土した通行証と思われる木簡(伊場30号)には写真のように「宮地駅家、山豆奈駅家、鳥取駅家」と墨書されていて、三河国の駅家のことであることは疑えない。木簡作成時期は奈良時代と推定されている。これを見れば「鳥取駅家」の存在は動かない。
この結果を受けて、浜松市立博物館「古代東海道駅伝展」資料(2019)では下図のような東海道駅家図を作成している。これによると、西から「鳥取」「山綱」「宮地」となる。倭名類聚抄、高山寺本では「宮地」がなく「渡津」となっている。駅間が等距離でないが、木簡の方が旅の実態を表している。鳥取―山綱間(直線距離14㎞)はほぼ平地であるが、山綱から宮地(現在の豊川市赤坂)間は直線距離で13㎞だが宮路山の山越えがあるので実際距離は伸び、空身ならいざ知らず荷駄を背負って、渡津駅家迄一日で達するのはかなり苦しい。宮地駅家は江戸時代でいえば間宿(あいのじゅく)に当ると考えられる。宮地駅家はこの木簡だけに出現する駅家。
(2)鷲取駅でなく鳥取駅になった経緯
いくら古代人でも鷲(ワシ)も鳥だから「鳥取」でよかろうと、簡単には考えない。やはり地名にはこだわりがあっただろう。しかし実際に木簡に鷲取駅と毛筆で書いてみると、「鷲」という文字を判読できるように書くのは難しい。延喜式神名帳には「和志取」神社と三文字で書かれているが、駅名を決める際に「2文字にせよ」とのキツイお達しがあったのか、駅名は全て2文字である。地元、鷲取郷のお役人は不本意ながら「鳥取」駅で妥協したと思われる。
鳥取とは
鳥取部とは古く鷹等を用いて鳥の捕獲をする部民であった。鳥取部は鳥取ともいい、この氏族は全国的に分布する。鷲などの猛禽類の羽は矢羽根として重要な貢納品であったことによると思われる。従って、鳥取郷は全国的に見られ、鳥取駅家も三河以外に下総にもある。
三河、鳥取駅家の所在郷名は?
平安時代に入ると駅家郷は過酷な負担から駅子が逃げ出し、平安中期には駅制そのものが崩壊していた。この点から臨川書店刊・倭名類聚抄所収の元和古活字本、高山寺本、二つのテキストを比較すると元和古活字本の方が、より古い時代の状況を反映していると推察できる。高山寺本は平安時代後半の実態を示すものではないだろうか。古活字本には、東海道、東山道、山陽道など主要街道にある諸郡には比較的駅家郷が残っているが、駅制発足時にあったであろう駅家郷の姿は想像すべくもない。
倭名類聚抄(元和古活字本)記載の駅家郷のある郡
国名 | 郡名 | 備考 |
和泉 | 西成、豊島 | 畿内 |
伊勢 | 鈴鹿、安農、度会 | 東海道 |
志摩 | 答志 | |
尾張 | 山田、愛智 | 東海道 |
参河 | 碧海、額田、宝飯 | 東海道 |
遠江 | 浜名、敷智、磐田、佐野、榛原 | 東海道 |
駿河 | 富士 | 東海道 |
相模 | 都筑、橘樹、荏原、豊島 | 東海道 |
安房 | 平群 | |
下総 | 葛飾、信太 | 東海道 |
近江 | 野洲、神崎、犬神、坂田 | 東山道 |
美濃 | 不破、大野、各務、賀茂、可児、土岐 | 東山道 |
上野 | 碓氷、群馬、佐伊、新田 | 東山道 |
下野 | 足利、都賀、河内 | 東山道 |
陸奥 | 白河、磐瀬、安達、柴田、名取 | |
若狭 | 三方 | |
加賀 | 加賀 | |
丹後 | 七美 | |
備前 | 津高、都宇、後月 | 山陽道 |
備後 | 安那、葦田 | 山陽道 |
安芸 | 安芸、佐伯 | 山陽道 |
周防 | 熊毛、都濃 | 山陽道 |
長門 | 厚狭、美祢、大津、阿武 | 山陽道 |
紀伊 | 名草 |
倭名類聚抄(高山寺本)に記載のある駅家郷のある郡
国名 | 郡名 | 備考 |
遠江 | 浜名 | 駅家郷 |
相模 | 足下 | 駅家郷 |
備中 | 小田 | 駅里(うまや) |
丹後 | 養父 | 駅里 |
備中、丹後の「駅里」は「うまや」と読みが振ってあるが、駅制外の荘園的性格の私的地域だろうか。
鳥取駅はどこにあったのか
倭名類聚抄(元和古活字本)によれば、三河国碧海郡には16の郷名が記載されている。
智立、采女、依網、鷲取、谷部、大市、碧海、樻禮、呰見、河内、桜井、小河、大岡、薢野、駅家(以上16郷)
高山寺本には、15郷が記載され駅家郷がない。つまり、駅家郷はどこかの郷に吸収されていた。
鳥取駅の位置はおおよそ山綱駅からの距離から、岡崎市宇頭地区と推定される。現地名で岡崎市宇頭町字新長者屋敷の地は、現在は整地され福山通運の敷地となっているが、かつては小丘陵であり、駅家の条件を備えていた。ここにはまた、室町時代末期、豊阿弥という人の館があり、それが長者屋敷と呼ばれたという。屋敷内にはチャボ井戸という井戸があり、それは戦後迄存在した(武田勇『三河の鎌倉古道』)。
二つの鷲取神社
上記、宇頭町がかつての鷲取郷に属していれば話は簡単だが、話をややこしくしているのが二つの「和志取神社」問題である。延喜式神名帳には尾張国碧海郡に和志取神社が記載されているが、明治時代に景行天皇皇子陵墓地問題と絡み、いづれが式内社であるかの論争があった。現在は②の柿崎町所在の和志取神社が式内社とされている。①の方は古代の谷部(はせべ)郷にある。
宇頭町も時代と共に分割、合併で領域が変化して話が複雑になっている。
① 和志取神社:岡崎市西本郷町御立2(新長者屋敷から約1400m)
② 和志取神社:安城市柿崎町和志取(新長者屋敷から約800m)
この問題について武田勇『三河古道と鎌倉街道』p.85で議論されている。ともかく「長者屋敷」、ひいては鳥取駅家が鷲取郷内にあった可能性は高い。