更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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平安時代、太平洋航路は沿岸づたいでも輸送に使えなかったか?

平安時代における太平洋航路による遠距離物資輸送の可能性



 平安時代の船旅の記録で有名なのは『土佐日記』である。現在の高知は京都からたいした距離ではないが、当時は帰京するのに54日もかかっている。当時の土佐は太平洋と四国山脈で外界から閉ざされた僻遠の地であった。陸路は峻険な山道を越えなければならないので、国司の赴任には海路が使われたようである。紀貫之は承平4年12月21日(ユリウス暦935年1月28日)に出発して54日かけ翌、承平5年2月16日(935年3月23日)に帰着している。旅の様子は土佐日記に詳しく書かれているが、一読して気付くのは、あまりに沿岸の泊地での逗留が多いことである。航海している何倍も逗留しているのである。その理由は風、海流の不具合のほか海賊の襲撃を避けながらの航海であったからである。都から比較的近い四国でもこのような状態であったので、関東から直接海路を使ったら幸運に難破しなくても1年かかったかも知れない。また当時の舟の構造が極めて脆弱で、原始的であったことが推察される。それにともなう航海術も幼稚なものであったろう。

以上のことから平安時代には太平洋航路は存在しなかったと考えられる。


※タイトル画像は一遍上人絵伝に描かれた船。
琵琶湖で使われていた内航船である(鎌倉時代)。平安時代まで船は基本的に刳り船で本体に舷側板を貼り付けたものであったから大型船は建造できず、無理に作っても遣唐船のように脆弱であった。鎌倉時代には板を組み合わせた構造船が現れた。画像の船はその前段階の準構造船のように見える。

 

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