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鎌倉街道をたどる頼朝上洛の旅(吾妻鏡)

鎌倉街道をたどる頼朝上洛の旅(吾妻鏡)
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吾妻鏡によれば、源頼朝は文治五年に後白河法皇から上洛の命を受け、建久元年十月に京都に向け出発した。当時の東海道(鎌倉街道)は尾張から北上し現在の関ヶ原を経由した。往路は到着までに32日かかっているが、途上で少なからぬ行政処分、都との事務連絡のほか入洛前の陰陽による日の調整、入洛準備のために日を費やしているので、正味の移動日数ではない。一方、復路は足柄路を経由して15日で帰着している。



復路の宿泊記事にはページ末尾に示すように”誤り”があり、修正の必要がある。

以下の書下し分文の引用元:『全譯吾妻鏡(二)』貴志正造 p.170~,p201~、新人物往来社

※アラビア数字の年月表示行は管理人が便宜のため挿入

※タイトル画像は平家物語絵巻信西 の巻部分より



源頼朝上洛往路(グレゴリオ暦1190.11.9~1190.12.12)



建久元年十月小三日(グレゴリオ暦1190年11月9日)



三日 甲甲 進発せしめたまふ。



御共の輩の中、宗たるの者、多くもって南庭に列居す。しかるに前右衛門尉知家、常陸国より遅参す。待たしめたまふの間、すでに時剋を移す。御気色はなはだ快からず。午の剋に及びて知家参上す。行縢(むかばき)を著けながら、南庭を経て直ぐに沓解(くつぬぎ)に昇り、この所において行謄を撤し、御座の傍らに参ず。仰せて曰く、仰せ合はせらるべく事等あるによって、御進発を抑へらるるのところ、遅参す。懈緩の致すところなりと云々。知家所労の由を称す。また申して云はく、先後陣は誰人これを承るや。御乗馬何を用ゐらるるやてへれば、仰せて曰く、先陣の事、重忠領状を申しをはんぬ。後陣は思しめし煩ふところなり。御馬は景時が黒駮(ぶち)を召さるてへれば、知家申して云わく、先陣の事、もっとも然るべし。後陣は(千葉)常胤宿老たれば奉るべきの仁なり。さらに御案に及ぶべからざる事か。御乗馬は、かの駮逸物たりといへども、御鎧に叶ふべからざるの馬なり。知家一疋の細馬(さいめ)を用意す。召さるべきかてへれば、すなはち御前に引き出づ。八寸余の黒馬なり。殊に御自愛あり。ただし御入洛の日これを召さるべし。路次はまづ試みに件の駮を用ゐらるべしてへり。また常胤を召し、六郎大夫胤頼を相具し、供奉すべきの旨、仰せ含められをはんぬ。その後御首途(かどで)す。冬天程なく黄昏に臨むの間、相模国懐島に宿せしめたまふ。後陣の輩いまだ鎌倉を出でずと云々。大庭平太景能、御駄餉を儲く。



四日 乙酉 酒匂宿に入御。



五日 丙戌 関下(せきもと)の邉において、陸奥目代の解状到来す。



よってかの国の地頭所務の間、定めらるる事等あり。路駅たりといへども、なほこの御沙汰に及ぶ。繁務寸陰を失はざるが故なり。

 




下す、陸奥国諸郡郷新地頭等の所、

早く留守ならびに在庁の下知に従ひ、先例限りある国事、その勤めを致すべき事。

  一 国司の御厩舎人等に給する田畠の事。

右件の舎人等、郡郷に居住し、かの田畠を在家等に募り来る者なり。早く先例に任せて引き募らしむべし。かつは作否の多少に随ひて充て行ふべきなり。

  一 国司の御厩佃(つくだ)の事。

右件の佃は、もとより定め置くの郡郷あり。宮城・名取・柴田・黒河・志太・遠田・深田・長世・大谷・竹城これなり。早く先例に任せて沙汰を致すべし。たとひ所損亡すといへども、作否に随ひて充て行ひ沙汰すべきなり。

以前の條々、この状を背き不当を致すの輩は、地頭職を改め定むべきなり。かつは御目代下向せざるの間、留守(伊澤)家景ならびに在庁の下知に随ひて、沙汰を致すべし。ただし留守家景は、先例を在庁に問ふべきなり。国司は公家より補任せらる。在庁は国司の鏡なり。先例沙汰し、ただし来るの事においては、人を憚らず、偏頗なく沙汰を致すべし。兼ねてはまた国の興復すべきは、ただ勧農の沙汰にあり。家景に仰せ付くるところなり。しかるに国務に随はざる所々には、家景自身罷り向ひ、実否を見知し、下知を加ふべきなり。なほ承引せざるの所をば註し申すべし。ただし人によって憚りをなし、偏頗ありて濫行を申し上げざるの輩は。家景に仰せ、奇怪に処すべきの状件のごとし。もって下す。

  建久元年十月五日




九日 庚寅 駿河国蒲原駅において院宣到来す。



これ近江国田根庄は按察(葉室)大納言(朝方)の領所なり。二品の御鬱陶によて日来篭居するの間、地頭佐々木左衛門尉定綱領家の所務を忽緒すと云々。かの卿復本の後、子細を申す就きて尋ね成敗せしめたまふべきの趣なり。すなはちその趣をもって定綱に仰せ含められをはんぬと云々。



十二日 癸巳 岡部宿において、院宣の請文を進じたまふ。



按察大納言(葉室朝方)の使、この程扈従したてまつり、御請文を賜はり、進みてもって帰洛すと云々。

 




去月九日の御教書、去ぬる九日到来す。謹みて拝見し候ひをはんぬ。近江国田根の庄務の事、早く領家使の下知に随ひて和與をなし、沙汰すべきの由、地頭定綱に仰せ含め候ひをはんぬ。この上なほ対捍を致し候ば、勘当すべく候なり。この旨をもって申し上げしめたまふべく候。恐々謹厳


  十月十二日       頼朝

 




十三日 甲午 遠江菊川宿において、佐々木三郎盛綱、小刀を鮭の楚割(すはやり折敷に居う)へ、 子息の小童をもって御宿に送り進ず。



申して云はく、只今これを削り、食せしむるのところ、気味すこぶる懇切。早く聞こしめすべきかと云々。 殊に御自愛あり。かの折敷に御自筆を染められて曰はく、

まちゑたる人のなさけもすはやりのわりなく見ゆる心ざしかな



十八日 巳亥 橋本駅において、遊女等群参す。



繁多の贈物ありと云々。これより先、御連歌あり。

  はしもとの君にはなにかわたすべき

  ただそまかはのくれてすぎばや   平(梶原)景時



廿五日 丙午 尾張国の御家人須細(すさい)治郎大夫爲基をもって案内者となし、当国野間庄に到り、故左典厩の廟堂を拝したまふ。



(平治に事ありて、この所に葬りたてまつると云々)この墳墓は荊棘に掩はれ、薛蘿(へいら=つた)を拂はざるかの由、日来は関東において遥かに懐を遣らしめたまふのところ、仏閣扉を拝すれば、荘厳の粧眼に遮り、僧衆座を構えて、轉経の声耳に満つるなり。ニ品これを怪しみ、疑氷を解かんがために濫觴を尋ねらるるのところ、前廷尉(平)康頼入道国に守たるの時、水田三十町を寄附せしめしより以降(このかた)、一の伽藍を建立し、三菩提を祈りたてまつると云々。この事、康頼入道の殊功を謝せんがために、兼日に一村を賜ふといふといへども、かの任国は往年の事なり。行業定めて廃絶せしめんか。潤飾を加ふべきの由思しめすのところ、鄭重の儀親(まのあたり)これを覧(み)て、いよいよ禅門(康頼)の懇志を憐み、更めて古塚の締搆(ていこう)を感じたまふ。また数十許輩の龍象を屈し、廿五三昧の勤行を修せられ、口別に錦衣二領、曝布(さらしぬの)十端これを施したまふと云々。



廿七日 戊申 御潔斎、熱田社に奉幣せしめたまふ。



当社は外戚の祖神たるによって、殊に中心の崇敬を致さると云々。



廿八日 巳酉 小熊(おぐま)宿において、須細大夫爲基、身の暇を賜はる。



鳴海よりこの所に迄(いた)るまで、御駕前に候ず。当国内牢籠の所領等安堵せしむと云々。晩に及びて美濃国墨俣に著御。ここに高田四郎重家、配流の宣旨を蒙りながらなほ本所に住し、あまりさへ謀反の企てあるの由、聞こしめし及ぶによって、御使を遣はすのところ、重家父子参上し、異心なきの由を陳じ申すと云々。



廿九日 庚戌 青波賀駅において、長者大炊が息女等を召し出され、纏頭(てんとう)あり。



故(義朝)左典厩、都鄙に上下向の毎度この所に止宿せしめたまふの間、大炊は御寵物たるなり。よってかの舊好を重んぜられるが故か。故六条廷尉禅門の最後の妾(乙若以下四人の幼息の母、大炊の姉)内記平太政遠(保元逆乱の時、誅せらる。乙若以下同じく自殺せしめおはんぬ。)平三眞遠(さねとほ)(出家の後鷲栖源光と称す。平治敗軍の時、左典厩の御共として、秘計を廻らし、内海に送りたてまつるなり。)大炊青墓の長者この四人はみな」連枝なり。内記大夫行遠の子息等と云々。



十一月大二日 壬子 近江国柏原において、前兵衛尉(藤原)忠康を召し取らる。



すなはち雑色をもって、その由を民部卿経房の許に触れ申さると云々。また山田次郎重隆・高田四郎重家等、配流の宣旨を蒙るといへども、おのおの配所に赴かざるの間、重隆は墨俣より召し具せらるるところなり。かの輩の事、ならびに路次の子細内奏のために、戸部(経房)に申すべきの旨、専使を先立て、御書を因幡守廣元(在京)の許に遣はさると云々。その詞に云はく、



内々の仰せによって、墨俣の邊において尋ね聞くのところ、重隆・重家謀反を発すべきの由聞くによって、重隆には使を付く。父子来り向ふあり。よって召し具したるなり。子息をば美濃に留めて、重隆をば召し具して参るなり。その故は、重隆が申状に、九月卅日、宣旨の御使は出づ。十月一日赦免を行はれ、定めてゆり候ひぬらんとおぼゆと申すなり。たとひ赦免候はむからに、いかでゆりぬらんとは計らんや。もっての外の次第なり。重家が申状には、東大寺の上人に付きて申すに、免ぜらるべきの由承れば、のぼらじと存ずるなりと申す。かくのごとくして、まことに謀反の儀を企つげに候へば、重家にも御使の上に使を付けて、進上し候なり。重家・兼信はまづ京とへ召し上せられ候後に、府の者も請け取り候ひなん。重隆を配所へ遣はさずして、召し具して候事、人も傍に申す事や候はんずらん。さ候とて、手放しに沙汰すべき者にて候ねば、当時召し具して候。御定(ごぢゃう)に随ひて沙汰すべく候なり。この由を急ぎ民部卿(経房)殿に申して、御返事を迎ひざまに走らしむべきなり。兼ねてはまた美濃の在庁雑事候て、沙汰すべきの由申ししかども、国の御目代も下向せざらぬさまの見参(げんざん)にもぞ入ると存ずるなり。この由をもよくよく申し上ぐべきなり。遠江の御目代、橋本宿に来りて、儲けして候ひしかば、領納しをはんぬ。これまた見参に入るべし。なほなほ重隆・重家等、宣旨を忽緒し候ひて、かやうに私の使を付け候の刻に、あるいは来り、あるいはさはぎなどし候。返す返す奇怪に候事なり。すでに朝威を忽緒し候。なほもって不敵の事に候。朝威を仰ぎ候はば、身の冥加こそは候はめ。また重隆使を給はりて候なり。申状に、上洛以前に流罪せらるべきの由を、鎌倉より申し候ひたりと申す者候なり。廣元をもって申したりと、大蔵卿の奉行にて仰せ下さるるの由を申し候なり。

  十一月二日   (平)盛時 奉

  因幡前司殿



十二月四日(1190年12月9日(グレゴリオ暦))甲寅 ニ品の御入洛、今朝たるべきの由、叡聞に達するの間、度々追討の賞をもって、拝官の恩あるべし。



しからば何の官たるべきやの由、勅問ありと云々。今日、(後藤)基清・(結城)朝光等、御使としてまづ入洛す。



五日 乙卯 野路宿に著御。



当国の三上社より垸飯(おうばん)・酒肴等を献ず。これを領納せしめたまはずと云々。



六日 丙辰 甚雨。雨を凌ぎて御入洛あるべしといへども、道虚ならびに御衰日たるによって延因し、野路宿に逗留せしめたまふ。



今日騎馬の勇士門前にありて無礼なり。下馬せしむべきの由、景時(梶原)下知を加ふるのところ、いまだその礼を習はざるの旨を答へ申す。よってその身を召し進ずべきの由、(和田)義盛に仰せらる。義盛門外に窺ひ出づるに、件の男すでに退去するの程なり。義盛引目を挟(さしはさ)み、追ひてこれを射るに、すなはち落馬す。時に義盛が郎従等これを搦め取り、子細を問ふのところ、大舎人允藤原泰頼なり。鎌倉殿御上洛の事を承り。御迎へのために参向し、かつは伯耆国長田庄得替の事を愁へ申さんがためなり。全く御旅館と知らざるの由、これを陳謝す。させる緩怠にあらず、早く相宥めて召し具せらるべきの由と云々。



七日 丁巳 雨降る。午の一剋、晴れに属す。その後風烈し。ニ品御入洛。



法皇密々に御車をもって御覧ず。見物の車、轂(こしき)を輾(きし)りて河原に立つ。申の剋、先陣花洛に入る。三條の末を西行し、河原を南行して、六波羅に到らしめたまふ。その行列。まず貢金の唐櫃一合。

次に先陣。

畠山次郎重忠(黒糸威の甲を著し、家子一人、郎等十人等これを相具す。)次に先陣の隋兵(三騎これに列す。一騎ごとに張替持一騎。冑・腹巻・行騰、また小舎人童髪を上げ、征箭を負ひ、行騰を著し、おのおの前にあり。その外郎従を具せず。)

(以下、隋兵の氏名一覧…省略)

八日 略



源頼朝上洛帰路(グレゴリオ暦1191年.1.18~1191.2.2)



十二月小

十二月十四日(グレゴリオ暦1191年1月18日)

十四日 甲午 天霽(はれ)る。前右大将家、関東に下向せしめたまふ。前後の隋兵以下供奉人、御入洛の時のごとし。ただし駿河守(源)廣綱、今暁たちまち逐電す。家人等皆これを知らず。仰天すと云々。これ故伊豆守(源)仲綱が男なり。年来右代将軍(頼朝)に相従ひたてまつり、関東に候ず。よって去ぬる元暦元年六月五日、当国守に申し任ぜらる。今度伴ひて上洛せしめたもふのところ、かくのごとし。その意(こころ)知らずと云々。夜に入りて、風もっとも烈し。小脇宿に著かしめたまふ。

十五日 乙未 箕浦宿

十六日 丙申 雪いささか散る。青波賀。

十七日 丁酉 黒田。

十八日 戊戌 小熊。


十九日 己亥 夜に入りて、宮地山の中に宿せしめたまふ。

廿日 庚子 橋下。

廿一日 辛丑 池田。

廿二日 壬寅 掛河。

廿三日 葵卯 島田。

廿四日 甲辰 駿河の国府。

廿五日 乙巳 興津

廿六日 丙午 亥の刻、黄瀬川宿に著かしめたまふ。御馬乗替等、多くもってこの所に儲く。北條(時政)殿御駄餉を献ぜらると云々。

廿七日 丁未 竹下。

廿八日 戊申 酒匂 1191年2月2日(グレゴリオ暦)

廿九日 己酉 五更に酒匂宿を出でしめたまひ、酉の剋鎌倉に著御と云々。

(以上引用終わり)



関東下向の旅程記事には誤記がある



京都から鎌倉に戻る旅程の中で地理的に見て明らかにおかしな部分(赤字で記入)がある。十二月十七日と十八日である。黒田の次に小熊で宿泊したことになっているが京都から見れば宿泊の順序は小熊→黒田である。さらに奇妙なのは小熊と黒田はすぐ近くで両宿に泊まる必要はない。『黒田』は明らかに『熱田』の誤記または誤写である。そうでなければ次の宿泊地『宮地山』まで遠すぎて行きつかない。さらに熱田社は頼朝母の実家筋であり宿泊しないのはおかしい。黒田が熱田であれば無理がない自然な旅程となる。

 

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