更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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朝野群載・駿河国司の解(げ)に見る平安時代中期の社会情勢

朝野群載・駿河国司の解(げ)に見る平安時代中期の社会情勢
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  朝野群載に収録された駿河国司の解(げ)は横走関の初出文献として引用されるが、そこに書かれた内容については言及されることがない。しかし、内容は非常に重要で、緊迫した平安時代の社会情勢を伝えている。当時、平将門(たいらのまさかど)の乱が鎮定され、平穏になっていたかと思いきや、そうではなく、逆に平将門という地方ボスが居なくなって盗賊がはびこり、民衆は安心して暮らすことが出来なくなっていた。なのに、それを取り締まるべき駿河国の役人には武器を持つことが許されていなかった。横走、清見という二つの関をかかえる駿河国司は部下に殉職者を出し、現場の責任者として必死に武装の許可を求めている。これは物語でも後世の歴史家の推測でもない、生々しい申請書である。申請は4か月後に裁可された。

尚、この内容から横走関が設けられた理由も判明する。足柄関は脆弱で容易に突破されるので、相模国以東からやって来る暴徒の乱入を防げない。そこで駿河への入口に横走関を設け賊の侵入を防いだのである。その意味で横走関は関所と言うより城砦の意味が強い。この目的に合致する地理的位置は、更級日記が書き遺したように足柄峠を下り、たどり着いた鮎沢川から富士の裾野台地に上がる地点、すなわち横山遺跡地(現、小山高校)以外に考えられない。

  引用する『国史大系、朝野群載』には漢文の原文しかないので、素人であるサイト管理人松太夫が書き下した。たぶん間違いがあるだろうが、ご容赦願いたい。大意はご理解いただけると思う。

原文を確認したい方は、朝野群載『駿河国司解』原文をご覧ください。



引用文献:新訂増補第29巻上、朝野群載、黒板勝美編、(吉川弘文館)、p.510

※画像は春日権現験記絵より



<書下し文>



国司以下帯剱を申す

駿河国司の解(げ)

諸国の例に因准し国司幷びに郡司雑任に帯剱を令ぜられんことを請ふ状

右謹んで案内を検す。当国は西を遠江榛原郡と作し、東は相模国足柄関を承ぐ。国内は清見横走両関を帯ぶ。坂東暴戻の類、往た反し地を得る。隣国の姧猾の徒、境を占め栖集(ししゅう)す。侵害して屢ば闘かふ。奪撃自ずと発る。百姓安ぜず。境内静无(な)し。国宰官符の旨を守り姧犯の輩を勘糺(かんきゅう)す。弓箭を帯びずば追補の便無し。近則を管れば、益頭郡司、伴成正、判官代永原忠藤等は、去る天暦八年殺害さる。介橘朝臣忠□は去年殺害される也。是或いは公事を拒捍(きょかん)し、或いは私怨を結ぶままにし、往々侵す所なり。重ねて傍例を検すに、甲斐信濃国、関門を置かずと云うと雖も、去る承平天慶の間、国の申請の任(まま)に已に裁許さる。此の国両関を帯びるに、何ぞ申請せず。加えて以て私に兵杖を帯びる輩を捕糾すること可ならん。及び警護を勧め行なうの状、官符重畳す。若し弓矢の儲け無くば、なんぞ非常の危を禦がん。望わくば官裁が諸国の例に準ひ件の帯剱を裁許され、将に不慮の備えをなさんとすることを請ふ。仍て事状を録し、官裁を請ふ。謹んで解(げ)す。

天暦十年六月廿一日

件の帯剱の事、同年十月廿一日 中納言師尹宣ぶ。請に依りて勅を奉ず。



<現代文訳>



国司以下が帯剱(武装)を申請しています。

駿河国司の上申書

諸国の例にならい国司及び郡司その配下の武装を命じられることを申請する書類。

右の件につき謹んで事情を確認します。当国は西の境を遠江の榛原郡とし、東は相模の国、足柄の関につながります。(駿河)国内には清見、横走の関があります。関東の乱暴者の一団がまた、はびこっています。隣国のずる賢く悪辣な者どもが国境(足柄関)を占拠し、たむろしています。(村々に)侵入し、しばしば戦いになります。(物を)奪ったり、暴力沙汰が起こります。住民は安心して暮らせず、国内は平穏なことがありません。(駿河)国の役人は官符の命ずるところを守り、罪を犯した輩を捜査しています。(しかし、)弓矢を持たなければ追いかけて捕えることが出来ません。去る天暦八年、益頭郡司、伴成正、判官代永原忠藤等は殺害されました。去年は(駿河の)次官橘朝臣忠□が殺されました。これでは公務を拒否したり、私的な恨みに変わり、あちこちで刃傷沙汰が起こることになります。別の似たような事例を見ますと、甲斐、信濃国には関を置きませんが、去る承平天慶の乱に際して国の申請通り、既に裁許されています。この国(駿河)は二つも関をかかえているのに、(武装の)申請しないということがありましょうか。これで私的に武器を持っている輩を捕縛追及することが出来るというものです。それに、(住民の)警護をちゃんとやるようにという官符が何度も出されていますが、弓矢の備蓄がなければ、どうして非常の危機を防ぐことが出来ましょうか。どうか、諸国の例に準じて武装を裁許され、予想外の事態に対する備えをさせて頂くことをお願いします。以上事情を記録し、お上の決裁をお願いします。謹んで上申します。

天暦十年(956年)六月廿一日



件(くだん)の帯剱の事、同年十月廿一日 中納言師尹が(天皇に)申し上げた。上申により勅を奉ずる(認可の官符を発給する)。



<解説>



(1)朝野群載とはどんな書物か

平安時代の詩文、宣旨、官符、書礼などの各種文書を分類して編纂した文書集。三善為康の編になり、編者が言うように、具体的目的があって編纂されたものではなく、手近にあった反古を集めたものに近いというが、現代から見れば生の平安時代の社会を見る上で貴重な資料となっている。平安中期~後期の文書が多い。

(2)帯剱

『帯剱』とは文字通り、役人が太刀などを吊るすことだと思っていたが、この文献を読んで包括的な用語だとわかった。つまり『帯剱』とは剣だけでなく弓矢、薙刀、槍、刀など『武器類一式』を装備する意味である。実際、鉄砲が出現するまで最強の武器は弓矢という飛び道具であった。次に薙刀、槍などリーチが大きいもので、太刀は接近戦になった時の最後の武器である。

(3)解(げ)

官僚機構の中で下位組織から上位組織に申請する文書

(4)官符

太政官符の略。太政官(現代で言えば内閣)が下位の役所に発給する指示書。在京官司と大宰府・諸国など地方官司向けの二種類があり、書式が異なった。

(5)承平天慶

承平・天慶の乱の事。承平・天慶年間(931~947)に起こった、平将門(たいらのまさかど)の反乱と藤原純友(ふじわらのすみとも)の反乱は連続して起こったのでひとくくりで呼ばれる。将門は関東で天慶3年(940)敗死、純友は瀬戸内海で、天慶4年(941)敗死した。但し、この乱が本当に国家に対する謀反であったか、あるいは中央から派遣されてくる国司らの暴政に対する地方豪族の反抗であったのか、当時から大いに議論があった。

(6)藤原師尹(もろただ)(920~969)

天慶9年(946年)参議となる。同年備前守に補任。天暦2年(948年)権中納言。天暦5年(951年)中納言。娘・芳子を村上天皇に入内させ、天徳2年(958年)女御の宣下を受ける。安和の変(969)の黒幕とされ、左大臣になるが間もなく没。

 

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