更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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大井川渡河に関する平安時代から鎌倉時代の史料

平安時代の大井川渡河に関する史料がいくつかあるので、そこから当時の大井川の実像を探る。



1.太政官符 承和2年(835年)6月29日付け



『遠江駿河両国の堺、大井河四艘。元二艘に二艘を加ふ』

引用元:国史大系 類聚三代格・弘仁格抄 後編 、p.494(吉川弘文館)



2.『伊勢物語』 貞観4年(862年)夏頃か?



伊勢物語の東下りでは大井川については触れられていないが、「宇津山越え」(蔦の細道)のコースは大井川渡河と密接な関連があるので取り上げる。

※ 在原業平の東下りについては古くから事実ではなく想像の産物ではないかという説があったが、 角田文衛氏は諸文献を詳しく検討した結果、これは基になる事実があって書かれたものであると結論づけている。

『業平の東下り』:王朝の映像p.208 角田文衛(東京堂出版)



異十 すずろなる道

むかし、男、すずろなる道をたどりゆくに、駿河の国宇津の山口にいたりて、わが入らんとする道に、いと暗う細きに、 つたかへでは茂り、もの心ぼそく思ほえて、すずろなるめを見ることと思ふに、すぎゆくにさしあひたり。 「かかる道にはいかでかいまする」といふを見れば、見し人なりけり。京に、その人のもとにとて、文書きてつく。

  中空にたちゐる雲の跡もなく身のいたづらになりぬべきかな。

とてなむつけける。かくて思ひゆくに、

 駿河なるうつの山のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり

と思ひゆきけり。

(小式部内侍本)引用元:p.239 日本古典文学全集8 小学館



3.『更級日記』寛仁4年(1020)10月中旬



富士河といふは、富士の山より落ちたる水なり。その國の人の出でて語るやう、「一年ごろ物にまかりたりしに、いと暑かりしかば、この水の面に休みつゝ見れば、河上の方より黄なるもの流れ來て、物につきて止まりたるを見れば、反故なり。とりあげて見れば、黄なる紙に、丹して、濃くうるはしく書かれたり。あやしくて見れば、來年なるべき國どもを、除目のごとみな書きて、この國來年あくべきにも、守なして、又添へて二人をなしたり。あやし、あさましと思ひて、とり上げて、乾して、をさめたりしを、かへる年の司召に、この文に書かれたりし、一つたがはず、この國の守とありしまゝなるを、三月のうちになくなりて、又なり代りたるも、このかたはらに書きつけられたりし人なり。かかる事なむありし。來年の司召などは、今年この山に、そこばくの神々集まりて、ない給ふなりけりと見給へし。めづらかなることにさぶらふ」とかたる。

清見の關は、片つ方は海なるに、關屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり。 煙あふにやあらむ、清見の關の浪も高くなりぬべし。おもしろきことかぎりなし。田子浦は浪たかくて、舟にて漕ぎめぐる。

   大井川といふ渡あり。水の、世の常ならず、すり粉などを、濃くて流したらむやうに、白き水、早く流れたり。

ぬまじりといふ所もすがすがと過ぎて、いみじくわづらひ出でて、遠江にかゝる。

※作者の記憶違いがあるので上記のように段落を変更した。

『富士河といふは…』のくだりは清見の関の前に移動するのが適当

※ 大井川といふ渡あり。水の、世の常ならず、すり粉などを、濃くて流したらむやうに、白き水、早く流れたり。

「ぬまじりといふ所もすがすがと過ぎて、」の前にに移動。



4.『海道記』貞応2年(1223)4月13日



播豆蔵(はつくら)宿を過ぎて大堰川を渡る。此の河は中に渡り多く、水またさかし(危ない)。 流を越へ嶋を阻て、瀬ゝ方ゝに分たり。此道を二三里行けば四望幽(かすか)にして遠情おさえがたし。 時に水風例よりも猛くて、白砂霧の如くに立つ。笠を傾け駿河国に移りぬ。 前嶋を過ぐるに波は立たねど、藤枝の市を通れば花はさきかかりたり。



  前島の市には波の跡もなし みな藤枝の花にかへつつ

海道記、p91中世日記紀行集 新日本古典文学大系51(岩波書店)



5.『東関紀行』仁治3年(1242)秋



菊川を渡りて、いくほどなく一村の里あり。こまばとぞいふなり。 この里の東のはてに、少し打ち登るやうなる奥より大井川を見渡したれば、 はるばると広き河原の中に、一筋ならず流れ分れたる川瀬ども、とかく人違ひたるやうにて、 すながしといふ物したるに似たり。中々渡りて見むよりも、よそめ面白くおぼゆれば、 彼(かの)紅葉みだれて流れけん竜田川ならねども、しばしやすらはる。



   日数ふる旅のあはれは大井川わたらぬ水もふかき色かな



前嶋の宿を立て、岡部の今宿うち過るほどに、片山の松の陰に立寄て、かれいゐなど取出たるに、 嵐冷(すさま)じく梢にひびきわたりて、夏のままなる旅衣、うすき袂もさむくおぼゆ。

東関紀行、p142中世日記紀行集 新日本古典文学大系51(岩波書店)


 

 



6.『十六夜日記』弘安2年(1279)10月25日



廿五日、菊川を出でて、今日は大井川といふ河を渡る。水いとあせて(浅くなって) 、聞きしには違ひてわづらひなし。いと遥か也。水の出でたらん面影、推し量らる。



   思ひ出(いづ)る都のことは大井川幾瀬の石の数も及ばじ

十六夜日記、p192中世日記紀行集 新日本古典文学大系51(岩波書店)



<大井川渡河史料のまとめ>



上記の史料を総合すると以下の事が言える。

1.平安時代、鎌倉時代に大井川は舟で渡る河であり、渡し場があった。

2.遠江側の渡しは台地上の初倉駅家から大井川の河原に下りた地点。 ここから前嶋(藤沢市前島)まで約3㎞が沼沢、河原、細流が入り乱れる難所であった。

3.駅制がまだ機能していたとされる「業平の東下り」が行われた平安時代前期(貞観4年)にも 初倉、前嶋ルートを辿り宇津山越えで駿河国府に向かっていたと考えられる。 この区間に関しては駅制は平安時代には駅家の名だけが残り事実上廃止されていた可能性がある。

 

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