藤原実資家の家司・家人の受領在任期間と菅原孝標の常陸の介への任官
平安時代以降諸国に派遣される国司は除目という公卿会議を経て決定され天皇に任命される。一応まっとうな手続きを経ているように見えるが、実はそれほど単純ではなかった。摂関家や有力貴族など権門(けんもん)と呼ばれる支配階級は諸国に有する荘園を維持支配するために公務員である受領を組み込むことを行なっていた。つまり、公卿会議も権門の利害を無視した人事は出来なかったのである。そもそも公卿会議は有力貴族で構成されているので当然のことである。
そのため、受領になるための資格を有していても、権門の手駒でなければ、なかなか、条件の良い国への任官は出来なかった。ここで紹介する文献は右大臣藤原実資家が如何に自分の家司、家人を受領に送り込んでいたかを示すものである。
佐々木恵介「日本史リブレット12『受領と地方社会』p.56(山川出版社)( 渡辺直彦「藤原実資家『家司』の研究」(『日本古代官位制度の基礎的研究 増補版』を参考に作成)
上記文献の表に更級日記作者の父、菅原孝標の常陸の介任官の時期を赤字で記入してみた。これから明らかに菅原孝標は常陸の国にある右大臣藤原実資家の荘園経営に組み込まれていたことが推測される。菅原孝標は実資の娘、千古家の家司だが、実質的には実資の家司である。