更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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太平記に見る鎌倉時代の東海道

太平記に見る鎌倉時代の東海道
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鎌倉時代に東海道は箱根経由に変わったといわれますが、その険しさからか、足柄越えも同時に利用されていたようです。室町時代に成立した太平記には後醍醐天皇側近の日野俊基が謀反の首謀者として逮捕され、鎌倉に護送される旅についての記述があります。『落花の雪に道紛ふ、片野の春の桜狩り、紅葉の錦を着て帰る、嵐の山の秋の暮…』という旅立ちのくだりは名文として、つとに有名です。本人にとっては処刑が待っている暗澹たる旅発ちだったと思いますが、作者は穏やかな美しい自然を語ることで悲劇をさらに劇的に盛り上げています。

通過する地名を巧みに文中に読み込んでくれていますので、当時の東海道が一目瞭然です。地名はブルーの背景色で示しています。

7月11日に逮捕。出発日は不明ですが7月26日に鎌倉着。

出典:兵頭裕巳・校注、岩波文庫「太平記(一)」



太平記、俊基朝臣重ねて関東下向の事



俊基朝臣は、前年土岐十郎頼時が討たれし後、召し取られて鎌倉まで下りたりしかども、様々に陳じ申されし趣、げにもとて赦免せられたりけるが、また、今度の白状どもに、専ら陰謀の企てかの俊基にありとて、七月十一日、六波羅へ召し取られて、関東へ下り給ふ。再犯赦されざるは、則ち法令の定むる所なれば、何と陳謝すとも、今度はよも赦されじ、路次にて失はるるか、鎌倉にて斬らるるか、二つの間をば離れじと、思い設けてぞ出でられける。

  落花の雪に道紛ふ、片野の春の桜狩り、紅葉の錦を着て帰る、嵐の山の秋の暮、一夜を明かす程だにも、旅宿(たびね)となれば懶(ものう)きに、恩愛の契り浅からぬ、故郷(ふるさと)の棲家を出でて、互ひに悲しき妻子をば、行末も知らず思ひ置き、住み馴れし九重の帝都をば、今を限りと顧みて、思はぬ旅に出で給ふ、心の中ぞあはれなる。



  嵐の風に越えて、打出の浜より、澳(おき)を遥かに見渡せば、塩ならぬ海にこがれ行く、実を浮舟の浮き沈み、駒も轟に踏みならし、瀬田の長橋打ち渡り、行き合ふ人に近江路や、世を宇禰の野に鳴く鶴だにも、子を憶ふかとあはれなり。時雨もいたく杜山の、木の下道に袖濡れて、篠に露散る篠原や、小竹(ささ)分くる道を過ぎ行けば、鏡の山はありと云えども、涙に曇りて見え分かず。物を思へば夜の間にも、老蘇(おいそ)の森の下草に、馬を止どめて返り見る、故郷を雲や隔つらん。 番馬醒井柏原不破の関屋は荒れはてて、なほ漏るものは秋の雨、塩干に今や鳴海潟、傾く月に道見えて明けぬ暮れぬと行く路の、いつかわが身の尾張なる、熱田の八剣(やつるぎ)伏し拝み、末はいづくぞ遠江(とおとおみ)、浜名の橋の夕塩に、引く人もなき捨て小船の、沈みはてぬる身にあれば、誰かあはれと夕暮れの、入相(いりあい)なれば今はとて、池田の宿に着き給ふ。

  元暦元年の比(ころ)かとよ、重衡中将の東夷のために囚はれて、この宿に着き給ひしに、

  東路(あづまじ)やはにふの小屋のいぶせさに故郷(ふるさと)いかに恋しかるらん

と長者が女(むすめ)が詠みたりし、その古へのあはれまでも、思い残さぬ愁涙に、旅館の燈(ともしび)幽(かすか)なり。

  鶏鳴暁を催せば、疋馬の風に嘶(いば)へて、天竜川を打ち渡り、小夜の中山越え行けば、白雲路を埋みて、そことも知らぬ夕暮れに、家郷の天を望みても、昔西行法師が、「命なりけり」と詠じつつ、二度(ふたたび)越えし跡までも、うらやましくぞ思われける。 隙(ひま)行く駒の足はやみ、日すでに亭午に上れば、餉(かれい)勧むる程とて、輿を庭に舁(か)き止む。轅(ながえ)を叩いて警護の武士を近づけ、宿の名を問ふに、「菊川ともうすなり」と答へければ、承久合戦の時、院宣書きたりし咎によって、光親卿、関東へ召し下されしが、この宿にて誅せらし時、

  昔は南陽県の菊水

  下流を汲んで齢を延ぶ

  今は東海道の菊川

  西岸に宿して命を終る

と書きたりし、遠き昔の筆の跡、今はわが身の上になり、あはれやいとど増さざりけん、一首の歌を詠じて、宿の柱にぞ書かれける。

  古へもかかるためしを菊川の同じ流れに身をや沈めん

大井川を過ぎ給へば、都にありし名を聞いて、亀山殿の行幸、嵐の山の花盛り、詩歌管弦の宴に侍りし事も、今二度見ぬ夢となりぬと思ひつづけ給ひつつ、前(さき)は島田藤枝に懸りて、岡部の真葛うら悲しき夕暮に、宇津の山辺を越え行けば、蔦楓はいとど茂りて道もなし。昔、業平の中将の、住所(すみどころ)求めんとて、東の方へ下るとて、「夢にも人に逢はぬなりけり」と詠みたりしも、かくやと思い知られたり。

  清見潟を過ぎ給へば、都に帰る夢をさへ、通さぬ波の関守に、いとど涙を催され、向かひはいづく見尾崎興津神原打ち過ぎて、富士の高峰を見給へば、雪の中より立つ煙、上なき思ひに比べつべし。明くる霞に松見えて、浮島が原を過ぎ行けば、塩干や茂き舟浮けて、田子の自らも、浮世に廻りし車返し竹の下道行きなやむ。足柄山の峠より、大磯小磯見下ろして、袖にも波はこゆるぎの、急ぐとしもはなけれども、日数積もれば、七月二十六日の暮程に、鎌倉にこそ着き給ひけれ。

  その日、やがて南条左衛門佐高直請け取り奉って、諏訪左衛門に預けらる。一間なる所に、蜘蛛手きびしく結ひて押し籠め奉る有様、ただ地獄の罪人の閻魔の庁を渡されて、頸かせ、手かせを入れられ、罪の軽重糺さるらんも、かくやと思い知られたり。


 

注1:池田の宿

中世、東海道遠江国の宿駅。天竜川の渡津。鎌倉時代には遊女の記述があり、この地方の慰安の中心地。宿は天竜川西岸の浜松市にあったが、流路の変動で東岸(豊田市池田町)に移転。これを機に次第に衰微した。  (国史大辞典、吉川弘文館)

 

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