更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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『とはずがたり』に登場する隅田川

『 とはずがたり』は鎌倉時代中期、十三世紀後半、後深草院に仕えた二条という女性の自伝。作者が宮廷を辞し尼となった後、33歳の頃、関東を訪ねた折(1290年、正応三年)、浅草周辺を訪ねている。当時、浅草寺は観音堂が野原にポツンと建っている状態であった。隅田川には橋がかかっており、現地の人は隅田川を「須田川」と呼んでいた話が語られている。現在、須田川の名残りは千代田区神田須田町という地名に残っている。ここで重要なのは、鎌倉時代、江戸の現地で隅田川は「すんだ川」(発音はおそらくsungda-gawa)、つまり、この地方は「ずーずー弁」であったと思われることである。隅田川が「あすだ川」と呼ばれていたという説の根拠とされているが、音韻から考えれば何の関連性もないことは明らかである。



『とはずがたり』に見る鎌倉時代の隅田川



八月の初めつ方にもなりぬれば、武蔵野の秋の気色ゆかしさにこそ、今までこれらにも侍りつれと思ひて、武蔵国へ帰りて、浅草と申す堂あり。十一面観音のおはします。霊仏と申すもゆかしくて参るに、野の中をはるばると分け行くに、萩・女郎花(をみなへし)・萩(をぎ)・薄(すすき)よりほかは、またまじる物もなく、これが高さは馬にのりたる男の見えぬ程なれば、推し量るべし。三日にや分け行けども、尽きもせず。ちとそばへ行く道にこそ宿などもあれ、はるばる一通りは、来し方行く末野原なり。


 観音堂は、ちと引き上がりて、それも木などはなき原の中におはしますに、まめやかに「草の原に出づる月影」思い出づれば。今宵は十五夜なりけり。雲の上の御遊びも思ひやらるるに、御形見の御衣は、如法経の折御布施に大菩薩に参らせて、「今ここに在り」とはおぼえねども、鳳闕の雲の上忘れ奉らざれば、余香をば拝する心ざしも、深きに変らずぞおぼえし。草の原より出でし月影、更け行くままに澄みのぼり、葉末に結ぶ白露は、玉かと見ゆる心地して、



雲の上に見しもなかなか月ゆゑの 身の思ひ出は今宵なりけり


涙に浮かぶ心地して、

 「隈もなき月になり行く眺めにも  なほ面影は忘れやはする

明けぬれば、さのみ野原に宿るべきならねば、帰りぬ。

  さても、隅田川原近き程にやと思ふも、いと大いなる橋の、清水・祇園の橋の体(てい)なるを渡るに、きたなげなき男二人会ひたり。


 「このわたりに隅田川という川の侍るなるはいずくぞ」と問えば、


 「これなんその川なり。この橋をば須田の橋と申し侍る。昔は橋なくて、渡舟にて人を渡しけるも、わづらはしくとて、橋出で来て侍る。隅田川などは、やさしきことに申し置きけるにや。賎(しづ)がことわざには、須田川の橋とぞ申し侍る。この向へをば、昔は三芳野の里と申しけるが、賎が駆り干す稲と申す物に実の入らぬ所にて侍りけるを、時の国司、里の名を尋ね聞きて、理(ことわり)なりけりとて、吉田の里と名を改められ後、稲うるはしく、実も入り侍る」など語れば、業平の中将、都鳥に言問ひけるも思い出でられて、鳥だに見えねば、


 「尋ね来し甲斐こそなけれ隅田川 住みけん鳥の跡だにもなし

川霧こめて、来し方行く先も見えず。涙にくれて行く折節、雲居遥かに鳴くかりがねの声も、折知り顔におぼえ侍りて、

 「旅の空涙にくれて行く袖を 言問ふ雁の声ぞ悲しき

『とはずがたり』新潮日本古典集成、福田秀一校注、p.248

 

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