更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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高師の山はどこか

高しの原は高い葦が生えている原野の一般名称



更級日記に登場する『たかしのはま』は原文はあくまで「高しのはま」である。この浜の現在地についての考察は別項でおこなう。ここでは、浜名地域にあったと考えられている高師山が三河にある『高しの浜』との関係で混乱が起こっているので、整理をしてみたい。『たかしの浜』は万葉集、古今集など古歌にも少なからず登場するが、多くは畿内(関西地方)にあり、更級一行が通過した浜名地域ではない。このことから『たかし』は既に言及されているように高い葦、『高葦(たかし)』が語源である可能性が高い。だとすれば、このような地域は日本中どこにもあった。湿地の多い浜名地域にはどこでも、「たかしのはら」があり、もちろん『高師の山』の近くにもあった。鎌倉時代以前には、この山はランドマークになる高さを持っていたらしい(室町時代に崩壊)。古にそれを呼ぶ際に高葦の原にある山だから、自然に『高葦の山』と呼ぶ様になったのだろう。『高師』と書くようになったのは三河の『高師原』のに習ったのか。



猪鼻坂については湖西市新居町浜名の天神社脇から上る数百mの坂、あるいは後年、平治ヶ谷(へいじがや)と呼ばれる峠(現在、新居ごみ焼却場がある)までの全体を指すものと考えられる。そこから坂を下ったところに、”古い境川”渓谷が流れていたと考えられる。現在は土砂で埋まり、北に広がる盆地となっているが、そこには富士機工という会社敷地がある。大正6年測量の地形図ではこの盆地はもちろん水田であるが、現在は耕作放棄され湿地帯に戻り、文字通り「高葦の原」になっている。平安・鎌倉時代との違いは、長い年月の間に、この辺まで来ていた浜名湖の入り江が土砂で埋まって水面がなくなり浜でなく原となってしまったことである。当時の汀線(波打ち際)はおそらく新幹線のガードの南、少し手前辺りと思われる。今でも、その目で見れば、そこら辺りから道路がガクンと下がっていることがわかる。水深はせいぜい数十cm程度であったろう。一方「高い葦」というのは実際にはどのくらいの物か現代人には想像もできないが高さは3-4mにもなる。メイン画像に示す高い葦原は中部電力の送電用鉄塔のメンテナンスのために自動車道路から鉄塔まで通路を通すために刈り取られた状態である。お蔭で遠くから見ても分からない「高葦の原」の断面がよくわかる。

さて、平安鎌倉時代にこの辺りまで浜名湖の水が入っていたか、ということについては、地質調査の結果でもなければ推測の域にとどまる。ただ、この湿地の西の丘陵を越えた盆地に大池(新幹線の路線に面す)という貯め池があるが、それは鎌倉時代まで、水がそこまで入っていた名残と伝えられているという(尾藤卓男、平安鎌倉古道、p192)。残念ながら根拠となる文献については言及がない。仮に隣の盆地がそうなら、当然東隣の盆地も入り江だったという推測は可能だろう。

最後に、素朴な疑問として、この沢が埋まるには20m近く土砂が堆積しなければならないが800年位でそんなに埋まるものだろうか。それについては、この地域の特殊性を考えれば納得がゆく。この地方の地質は軟弱で崩れやすく、現在でもあちこちに崖崩れの警告板が立っている。さらに繰り返し大きな地震に襲われている。風光明媚であった浜名の入江も明応の大地震(1498)で、入り江に面する大倉戸の崖が崩れ、埋まってしまったという。地震だけでなく、その後に続く台風、梅雨期の集中豪雨で緩んだ地盤が崩壊すれば、あっという間に地形は変わる。この浜名地域は古来災害の地なのである。



高師山の実像



更級日記には高師山は出てこないが鎌倉期以降の歌や日記に多く登場するので、ついでに論点を整理してみる。

 『高師山』については、古くから多くの人が首をひねっている。高師というのは元々三河の地名である。しかし高師の「山」については浜名地域にある山であろうと思われるものがほとんどである。そこで次のような仮説は成り立たないだろうか。

この場所が浜名の入り江一帯が景勝の地であったのでそれを眺める場所として有名になり「高葦の原」を上がったところにある山、あるいは山地が『たかしの山』としてに固有地名化した。最初は「たかし山」と書いていたのに、そのうち三河の地名『高師』を当てたので混同が始まった。そして鎌倉時代には十六夜日記にみられるように、その山の下にある入り江に面した海岸までが高師の山の関係で『高師の浜』と呼ばれることになってしまった。まさに地名の引っ越しである。現在、地理的には「高師山」という名の山は存在せず、現在は内山地区ある丘陵全体と考えられれている。それはさておき、古人は一体どの地点から、美しい浜名の入江を眺めたのであろうか?これについては『猪鼻坂』の項で考える。

 ところで、この高師山と思われる丘陵の下の平地(静岡県湖西市新居町浜名高師山)になんと『高師山』という字名が存在する(画像に示す、うなぎ屋のある交差点の地名に注目)。こういうものの多くは、後世、古歌に詠まれた風雅な地名を字名にとったものだそうだが、この高師山に限ってはそうではなく、江戸初期以前から存在した地名であることを示す文献証拠が発見されている。当時記録を残した新川盛政の『駿河下向記』(慶長16年、1611年)には

 『この山は野のはづれ、海辺にある原にて、いささか高き所もなし、いひしらせずば山とは知らじかし…』と不審がっている。

高師山とは何とも不思議な地名である。



文献

「新川盛政駿河下向記」の資料的研究:鶴崎裕雄、中庄新川家文書研究会、報告一、p135 

 

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