更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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明応大地震による高師山崩壊と浜名入江埋没、その後の三河・遠江国境の変遷(仮説)

平安・鎌倉時代東海道の随一の景勝地であった浜名は多くの古典に登場する。しかし描かれた自然環境を現代の地理情報に照らすと不可解な部分が多い。まず当時、歌にも詠まれ世に名高かった高師山が現在どこにも存在しない。遠江、三河国境が高師山のすぐ近くにあるように書かれているが、少なくとも近世の遠江三河国境は浜名地区ではなく、少し西に離れた位置にある。にも拘わらず、すべての古典は高師山は浜名入江のすぐ近くにあったと書いているのである。

これまでこの問題に関心が払われたことはないが、昨今騒がれている南海トラフによる大地震の発生との関連で掘り下げてみることには意味がある。

結論を先に言えば、高師山は戦国時代に起こった明応大地震で崩壊消滅したのである。同時に殷賑を極めた東海道、橋本宿も大津波で一瞬のうちに海の藻屑となった。

まずは高師山について書き記された関連古典の該当部分を読んでみよう。



古典に見る三河・遠江国境に関する記述



『更級日記』



それよりかみは、ゐのはなといふ坂の、えもいはず侘しきを登りぬれば、三河の国のたかしの浜といふ



『東関紀行』

 参河、遠江のさかひに、高師山と聞こゆるあり。山中に越えかゝるほど、谷川の流れ落ちて、岩瀬の波ことごとしく聞こゆ。境川とぞいふなる。

  岩つたひ駒うちわたす谷川の音もたかしの山に来にけり

橋本といふ所に行つきぬれば、聞渡りし(甲斐)かひ有て、景気いと心すごし。南には海潮あり。



『海道記』

 十日、豊河を立て、野くれ里くれ遥ばると過ぐる、峰野の原と云う処あり。日は野草の露より出て、若木の枝に昇らず、雲は嶺松の風に晴て、山の色天と一(ひとつ)に染めたり。遠望の感心情つなぎがたし。

  山の端は露より底にうづもれて野末の草に明くる凌晨(しののめ)



やがて高師の山にかかりぬ。石利(いわかど)を踏みて火敲坂(ひうちざか) を打ち過れば、焼野原に草の葉萌出て、杪(こずえ)の色煙をあぐ。此林池を遥に行けば、山中に堺川あり。是より遠江国に移りぬ。

  くだるさへ高しといえばいかがせんのぼらん旅の東路の山

此山の腰を南に下て遥に見くだせば、青海浪々として、白雲沈々たり。海上の眺望は此処に勝たり。漸に山脚に下れば、匿空の如に掘入りたる谷に道あり。身をそばめ声を合わせてくだる。下りはつれば、北は韓康独往の栖、花の色夏の望に貧く、南は范蠡舟の泊、浪の声夕の聞に楽しむ。



『十六夜日記』

 高師の山も越えつ。海見ゆる程、いと面白し。浦風荒れて松の響すごく、浪いと高し。



平安・鎌倉時代の古典は全て三河・遠江国境は高師山山中にある境川と証言



文書の要点を現代文でまとめると以下のようになる。

更級日記では、「浜名から三河方面に向かった。その時ゐのはなといふ坂を登ったのち三河の国のたかしの浜に出た(国境を越えた)」。

東関紀行では、「三河の豊川から浜名に向かい、三河、遠江の国境である高師山に来た。山中に境川というかなり激しく流れ落ちる谷川があった」。

海道記では、「高師の山にかかり、岩ゴツゴツの火敲坂(ひうちざか)を過ぎ、野焼きした原に出て林のなかを進むと山中に堺川があった。ここから遠江国になった。高師山の腰を南に下り見渡すと青い海が見えた」。

十六夜日記では「高師山を越えると海が見えた」。



以上の結論は

①鎌倉時代までの三河・遠江の国境は疑いもなく高師山の山中にありそこに境川というかなり険しい谷川が流れていた。

②高師山の南に海がある。



現代の地図には高師山という山は存在しない。その代わりに不思議なことに高師山という江戸期以前からの字(あざ)名が旧浜名の入江のど真ん中に存在する。

ちなみに現在の愛知・静岡県境、もしくは江戸時代の東海道が横切る三河・遠江国境には梅田川水系の同名の境川がある。しかし、この川の近くには高師山に該当しそうな山がない。結論を出す前に、この地域に大きな地形変動をもたらしてきた、大地震、津波についてみてみよう



戦国時代に発生した明応大地震の浜名地域への打撃



明応7年8月25日、1498年8月11日(ユリウス暦)に明応大地震が起こった。推定マグニチュード8.6と言われ、現在発生が懸念されている南海トラフ大地震の戦国時代版である。

明応大地震の惨状について、当時の記録がある。おそらく実見ではなく聞き書きであろうが、実に真に迫る描写である。ひ孫引きであるが藤田氏の論文の関係部分を以下に引用する。明応7年:1498年9月20日(グレゴリオ暦)(ユリウス暦9月11日)の出来事である。



中世末から近世における渥美半島表浜から遠州灘沿岸の地震・津波の諸相 藤田佳久




p.51

隣接する天竜川河口一帯の明応7年の地震と津波の記録が残っていた。それは遠江国佐野郡寺田郷(現掛川市)の曹洞宗円通院住職による『円通松堂禅師語録』中にみられ、15世紀に同住職が活躍した記録の中に明応7年の地震・津波の記録が残されたものである。原文は漢文だが鈴木泰山が訓読していて、それを『静岡県史、別編2、自然災害編』が紹介しているので、それを示す。



『(明応7年)同月(8月)二十五日の辰の刻(午前7~9時)、忽然として大地震動し、万民肝を喪う。或いは地に倒れて匍匐し、或いは柱を抱いて滅を待つ。老翁は合掌し仏名を念じ、幼弱は叫喚して父母を号(よ)ぶ。平地は破裂して立ち三五尺(約1mから1.5m)の波濤を涌出し、巨岳は分破して忽に千仞余の懸崖を崩し奔(はしら)しむ。従前の風雨に破落せる残家残屋を一等に震卻(しんきゃく)して半ば地中にに陥墜す。中に就いて最も憐れむべきは旅泊の海辺・漁浦の市店に聚る遠国の商人・群る近隣の買客・八宗の仏民寺院の僧坊に架す、並びに歌舞伎楽遊燕の輩、一朝にして時刻に渉らず(いくらの時間もかからずという意味か?)、洪濤天に滔(はびこ)りて来り、一弾指頃にして地を掃いて総て巻き去る。』



(引用ここまで)

この大災害がどこで起こったのか明記されていないが『静岡県史』では掛川から浅羽などの描写であろうとされている。しかし、静岡県掛川に近い地域で当時、「海岸にある漁師町」で「旅人」、「遠国の商人」「近隣の買い物客」が集まり、「多くの宗派の寺院に参詣する人々」が居て、その上「歌舞伎楽遊燕の輩」がいるほど賑わっているのは、浜名の「橋本宿」をおいて考えられない。本稿では一つの仮定として、語録の記述を橋本宿の惨状として考察を進める。



明応大地震で高師山は山体崩壊し浜名の入江に崩れ落ちた。



明応大地震で新居町大倉戸地区の崖が崩壊して大量の土砂が浜名入江に流れ込んだことが古くから伝えられている(『地名が語る新居』p34)。たぶんその通りだろうが、問題は土砂の容量である。入江全体を埋めるには普通規模の崖崩れや雨水の浸食による土砂の堆積では全然足らず、山全体が崩壊して入江に崩れ落ちたと考えなければ説明できない。つまり、高師山は大倉戸地区の上にあったと考えるのが最も妥当である。円通松堂禅師の語録には『巨岳は分破して忽に千仞余の懸崖を崩し奔(はしら)しむ』とある。一つの山が崩壊したからこそ、入江全体が埋まったのである。そして、崩れ落ちた土石はしばらくの年月は小山となって残っていたはずである。その小山には元の山である高師山にちなんで高師山と名付けられていたのではないか。小山はその後、続いた風水害、高潮などの自然災害や、おそらく人力でも取り崩され平準化されていった。そして江戸時代になる前には、入江は完全に埋め立てられ平地となり高師山の字名だけが残った。残った高師山の基底部は最高高度70m程度テーブル状の台地となりもはや山とは呼ばれず忘れられた(現在そこは新居技術工業団地がある)。

山体崩壊は南の海側だけでなく北側でも起こり、(境川と呼ばれていたであろう)渓谷に膨大な量の土石が流れ込み、谷は埋められ、さらに続く翌年の集中豪雨で土砂は浜名湖の入江に押し流され湖水の入江は後退していった。おそらく深さ20m以上の土砂が堆積し境川渓谷は完全に消滅した。



地震の結果、三河・遠江国境は高師山という顕著な地形的目印(ランドマーク)がなくなったので移動した



明応大地震を契機に鎌倉時代まで国境であった高師山、境川はこの世から消滅した。室町時代には国土地理院のような役所で国境の位置を決めたり管理しているわけではないので、この大災害ののち東海道が西側の白須賀の方に移動すると、自然とそちらの方に移動してしまった。そちらにあった川が新たに境川と呼ばれるようになった。これが結論である。


 

明応大地震のその後



震災後に2つの重大な関連災害が起こった。これらは地震災害そのものと合わせ明応の変と呼ばれる。一つは浜名入江の閉塞により浜名湖の水が排水されなくなり、翌年(1499)6月の集中豪雨の際に遂に現在の今切の辺りで砂州が決壊して外海と通じてしまったことである。暫くは干潮時には歩いて渡れる程度であったらしいが、だんだん浸食がすすんで現在のように完全に切り離されてしまった。もう一つは地震で緩んだ地盤が集中豪雨であちこちで崩れ土石流となり、豊かであったこの地域を完全な荒野に変えてしまったことである。

とはいえ災害から年月を経てくると、土砂で埋まった浜名入江は恰好の新田候補地と目されるようになり開発が進んだ。大災害ではあったが戦国時代の技術力、資金力では浜名入江全体を干拓・新田化することは到底できなかったから、地震、集中豪雨という悲惨な災害ではあったが、もたらされた新田はわずかな慰めにはなった。

以下『地名が語る新居』p34から引用しよう。


『大倉戸部落の地籍は正しくは芳野という。ヨシノとはやはり葦がたくさん生えていたのだろうか。大倉戸の歴史もまた、明応の変およびその後の新田開発と切っても切れない縁がある。うら山一帯は大欠(オーガケ)という、この辺の山は今でも崖くずれ危険区域に指定されているが明応の大地震の時にこの山が崩れ、浜名川に大量に流れ込み河口をせき止めたのが今切の誕生に結び付いたのだと思われる。でもその昔は、山がミシレテ(むしられて)できた土地をみんなで一畝ずつ分けあったなどと伝える。』

 

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